モンゴル襲来とは? わかりやすく解説

モンゴル襲来(1223年 - 1299年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 02:15 UTC 版)

東ローマ帝国」の記事における「モンゴル襲来(1223年 - 1299年)」の解説

周辺国では、1223年カルカ河畔の戦い以来モンゴル帝国による東欧侵蝕チンギス・カンの西征モンゴルヨーロッパ侵攻英語版))が始まり1242年にはジョチ・ウルスキプチャク草原成立し1243年キョセ・ダグの戦いルーム・セルジューク朝モンゴル帝国1258年イルハン朝分裂)の属国化し1245年ヤロスラヴの戦いウクライナ語版、ロシア語版ポーランド語版)ではハールィチ・ヴォルィーニ大公国ジョチ・ウルス属国化した3代目ニカイア皇帝テオドロス2世ラスカリス在位1254年 - 1258年)の死後摂政、ついで共同皇帝としてミカエル8世パレオロゴス在位1261年 - 1282年)が実権握った1259年9月ペラゴニアの戦いで、アカイア公国エピロス専制侯国シチリア王国連合国軍ニカイア帝国東ローマ亡命政権)軍が破り1261年にはコンスタンティノポリス奪回東ローマ帝国復興させて自ら皇帝即位し最後にして最長王朝パレオロゴス王朝1261年 - 1453年)を開いたフレグの西征1258年にはイルハン朝イラン高原成立していた。さらに1260年モンケ没して帝位継承戦争勃発し1262年11月にはベルケ・フレグ戦争英語版)でジョチ・ウルスイルハン朝争いが始まる中、東ローマ帝国ジョチ・ウルス直接接触することになった1265年に、ノガイ・ハーン率いジョチ・ウルス軍がトラキア侵攻しミカエル8世パレオロゴスの軍は敗北しジョチ・ウルス同盟することになったその後1271年1274年1282年1285年モンゴル軍ヴォルガ・ブルガール侵攻していた。 1277年第二次ブルガリア帝国イヴァイロ蜂起起こりミカエル8世とノガイ・ハーンが介入し1285年第二次ブルガリア帝国ジョチ・ウルス従属したこの間1282年に、テッサリア反乱起こり、ノガイ・ハーンはトラキアミカエル8世への援軍送ったが、ミカエル8世病気になり急死したミカエル8世息子アンドロニコス2世パレオロゴスは、援軍ブルガリア同盟するセルビア王国攻撃用いた1286年に、セルビア王国ステファン・ウロシュ2世ミルティン講和申し入れたアンドロニコス2世パレオロゴス在位1282年 - 1328年)の時代以降軍事的な圧力が強まる中で1299年にノガイ・ハーンが死亡して強力な同盟を失うと、かつての大帝国時代のような勢い甦ることは無く祖父と孫、岳父娘婿父と子など皇族同士帝位争い頻発し経済もヴェネツィア・ジェノヴァといったイタリア都市握られてしまい、まったく振るわなくなった。そこへ西から十字軍残党ノルマン人セルビア王国攻撃された。

※この「モンゴル襲来(1223年 - 1299年)」の解説は、「東ローマ帝国」の解説の一部です。
「モンゴル襲来(1223年 - 1299年)」を含む「東ローマ帝国」の記事については、「東ローマ帝国」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「モンゴル襲来」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「モンゴル襲来」の関連用語

モンゴル襲来のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



モンゴル襲来のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの東ローマ帝国 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS