クレムリの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 09:08 UTC 版)
中世初期のルーシの町は、水の豊富な開けた場所に建てられていた。町は濠を周りにめぐらせ、木造の壁や塔で中の家々を守っており、街並みや聖堂も木造だった。木造の砦はスラヴ諸国やスカンディナヴィアには古くからみられる伝統だが、13世紀頃からは石造の城壁や建物もみられるようになった。こうした要塞を指すより古い言葉としてデティネツがあるが、次第にクレムリという表現にとってかわった。 13世紀前半のモンゴル帝国の襲来でロシア南部や東部の都市は破壊され、木造や石造の城塞も破壊された。その後のロシアのクレムリはモンゴル人やタタール人などとの戦いの中で洗練されていった。ロシア北西部のプスコフ州やノヴゴロド州にはモンゴル襲来以前の要塞の様式も残るが、これらの土地では西方のリトアニアやポーランドによる襲撃が頻繁に起こり、多数の前哨がプスコフ周囲の国境地帯に築かれた。 都市や国土の防衛が急がれる際には建設期間が短くすむ木造のクレムリも造られたが、やがて既存のクレムリは石やレンガで補強されるようになっていった。 クレムリの建設は17世紀から18世紀頃まで行われていた。しかし18世紀から19世紀にかけてクレムリは軍事上の重要性を失い、新古典主義建築による都市改造などとともに撤去されるクレムリも多くなった。
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