クレムリンでの交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 15:30 UTC 版)
当初の目論見が崩れ、チェコスロバキア側の受動的抵抗に直面したブレジネフらソ連指導部は、事態収拾策として、スヴォボダの要求を受け入れ、23日から、クレムリンで交渉が始まった。しかし「反革命勢力」と名指しし、拘禁していたドゥプチェクらと交渉するというブレジネフの方針に関しては異論が投げかけられた。モスクワに集結していた介入当事国首脳は、24日にソ連指導部の方針を知らされたが、この場でウルブリヒト、ゴムウカ、ジフコフは、あくまでも革命労農政府の樹立を求め、必要ならば一定期間の軍事占領を実施する強硬意見を述べた。また25日のソ連共産党政治局会議でも、同様にブレジネフやコスイギンが描く事態収拾策に対して異議が出された。
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