受動的抵抗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 03:50 UTC 版)
「ヴァイマル共和政のハイパーインフレーション」も参照 ドイツは駐仏大使を召還し、さらに占領に対して受動的な抵抗運動を呼びかけた。炭坑や工場、鉄道、行政は全面的に不服従やストライキを行い、占領に抵抗した。ストライキに参加した労働者の給料は、政府が保証した。また、当時連合国軍の占領下にあったラインラントでも占領軍に対するテロが発生するようになり、これらの地域の情勢は極度に悪化した。イギリスはロイド・ジョージが「非武装の国に対する軍事侵略であり、正当化されず、無益であることがいずれ判明するべきものであった」と批判し、労働党などの左派もこれを批判した。フランス国内では社会党など左派は占領に反対していたが、右派やフランス国内の新聞はさらに強硬な対応を取るよう主張していた。5月2日、ドイツは連合国に対して賠償総額300億金マルクに確定するよう求めたが、フランスとベルギーはこの要求を拒否した。 5月8日に占領軍はクルップ社の社長や幹部を不服従の罪で訴追し、数ヶ月から20年の禁固刑を科した。5月末にはクルップ社の工場で、占領軍の実力行使による衝突が発生し、13人の労働者が死亡した。抵抗運動全体では250名の死傷者が発生し、占領軍は対抗手段としてルール地方から14万5000人のドイツ人労働者を追放して、ベルギー人・スイス人労働者を導入してこれにかえようとした。 この間にも給料の支払と税収の減少でドイツの財政は破綻し、生産が急減した状況で紙幣が大量に発行された結果、ドイツ経済はハイパーインフレーションへと陥った。1923年1月には1ドル=1万7792マルクのレートであったが、7月には1ドル=35万3410マルク、8月には1ドル=462万455マルク、9月には1ドル=9886万マルク、10月には1ドル=252億6020万3000マルク、11月には4兆2000億マルクに達した。 占領の解除も行われず、経済情勢も不穏となったドイツは混乱をきたした。6月6日にはザクセン、7月20日にはブレスラウ、7月23日にはフランクフルトなどで争乱事件が起きた。6月7日、ドイツ政府は連合国に対してドイツの支払能力を査定する中立な機関設立を求めた。イギリスとイタリアは妥協的であったものの、フランスとベルギーはあらゆる抵抗の中止が交渉の前提であると拒絶した。イギリスのジョージ・カーゾン外相は6月11日、フランスとベルギーの占領はヴェルサイユ条約違反であるとフランス政府に通告した。カーゾンはさらに7月20日、現状の賠償プランが実行不可能であるとし、アメリカの仲介による中立的な査定機関を設立するべきであるという書簡をフランス政府に送付した。ポアンカレは現状のドイツ経済の混乱はすべてドイツ政府の愚かな行動が原因であるとし、賠償金の減額には一切応じない姿勢を強調した。 8月11日には社会民主党がクーノ内閣に不信任を突きつけ、クーノ内閣は退陣へと追い込まれた。社会民主党、中央党、民主党、ドイツ人民党は大連立内閣を組織し、グスタフ・シュトレーゼマンが首相となった。財務相となったルドルフ・ヒルファーディングは今後4週間の支出400兆マルクのうち、ルール闘争支援費用が240兆マルクに達すると試算しており、ルール闘争支援はすでに限界に来ていた。シュトレーゼマンは表面上闘争の継続を掲げていたが、冬が始まるまでの継続は不可能であると見ていた。政府の一部にはなおも抵抗継続を主張する声もあったが、9月26日、シュトレーゼマンは国会外交委員会において抵抗運動の終了を宣言することとなった。政府与党はこの表明を支持したが、ドイツ共産党とドイツ国家人民党は反対した。 受動的抵抗の中止声明は、ドイツ国内に激しい衝撃を与え、さらに政局は混乱した。9月26日にはフリードリヒ・エーベルト大統領が戒厳令を発し、指揮権を国防相に与えた。バイエルン州では右派のグスタフ・フォン・カールが政権を掌握し、共和国保護法を停止するなど、反中央政府的な動きを見せた。これらの動きは11月のミュンヘン一揆につながることになる。しかし一方で11月15日にはレンテンマルクの発行によるデノミネーションを実施し、インフレを沈静化させるのに成功した。11月23日、シュトレーゼマン内閣はバイエルン州問題に対する対応などをきっかけに社会民主党が連立離脱したために総辞職している。
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