ラインラント【Rheinland】
ラインラント
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ラインラント(Rheinland)は、ドイツ西部、ライン川沿岸の一帯を指す地方の名称。ラインラント=プファルツ州のほぼ全域とノルトライン=ヴェストファーレン州西部を中心に、ヘッセン州西部、バーデン=ヴュルテンベルク州北部にまたがる。沿岸一帯といっても、南部の上流域であるアルザスやバーデン地方は含まず、カールスルーエ付近からオランダ国境付近までを指す。ベネルクス三国やフランスのロレーヌ地方に接し、西欧の経済・産業の一大中心地である。
- ^ Gerhard Köbler: Historisches Lexikon der deutschen Länder. 6. Aufl. München: C.H.Beck 1988 = Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 1999, S. 524-525.
- 1 ラインラントとは
- 2 ラインラントの概要
- 3 歴史
ラインラント
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「ドイツにおける1848年革命」の記事における「ラインラント」の解説
詳細は「エルバーフェルト蜂起(ドイツ語版)」を参照 ラインラントはラインヘッセン、ルクセンブルク、プファルツとともに1795年からナポレオン時代のフランスの支配下に置かれた歴史を有していた。ナポレオン軍は神聖ローマ帝国軍を撃破し、ナポレオンの支配により、聖職者や貴族が従前同地で行ってきた封建的支配の解体と捉えられる社会、行政、立法政策が確立された。ラインラントは土壌が農業に適さなかったが、林業が伝統的に有力産業になっていた。農業の比較的過疎、18世紀末の封建制の廃止、有力な伐採業は、ラインラントの工業化に寄与した。すぐ近くのマルクの石炭資源、北海に至るライン川経由の水路もあり、ラインラントのライン川西岸は19世紀ドイツ随一の工業地帯となった。1848年までには、アーヘン、ケルン、デュッセルドルフ市が重工業化され、その他の産業も数多くみられた。19世紀初頭、ラインラントの人口の90%以上が農業(伐採業を含む)に従事していたが、1933年までには、農業にとどまっていたのは12%だけであった。 1848年までには、一大工業労働者階層(プロレタリアート)がラインラントに発生し、ナポレオン時代のフランスから比較的高度な教育を受けたことで、政治的に活動的になっていた。他のドイツ諸邦では小ブルジョワジーが1848年の蜂起を率いていたが、ラインラントではプロレタリアートが早くも1840年にはブルジョワジーに対して階級の利益を公然と主張していた。 1848年、プロイセンはラインラントをライン州の一部として支配していた(1614年のクサンテン条約で同地における最初の所領を獲得した)。ナポレオン時代には、前述のとおり、ラインラントのライン川西岸がフランスに併合され、封建制が廃止された。しかし、1814年のナポレオン没落後、プロイセンがラインラント西岸を引き継いだ。プロイセン政府はラインラント人を征服地の外国人とみなし、忌み嫌われた封建制を復活し始めた。1848年のラインラントの革命機運は強い反プロイセン感情に染まっていた。ラインラント人は、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が1848年3月18日にベルリンで表明した、連合州議会の召集その他の民主的改革の実施の宣言に注目した。連合州議会の選挙は間接選挙であり、男子普通選挙に基づいて選ばれた選挙人が連合州議会議員を選ぶものとされた。ラインラント人はこれを進歩とみて期待を残し、他のドイツ諸邦で起こっていた蜂起に早い段階で加わることはなかった。 プロイセン政府はラインラントにおけるこの沈黙をプロイセンの専制政治への従順さによるものと取り違えた。そして、ドレスデン、プファルツ、バーデン、ヴュルテンベルク、フランケン等、他のドイツ諸邦の領域や都市における反乱を鎮圧するため援軍を送る構えを見せ始めた。このためには追加部隊が必要であり、プロイセン政府は、ラインラントの従順さを見越して、1849年春にヴェストファーレンとラインラントにおいて予備軍(ラントヴェーア)の大部分を召集した。この措置は反発を招いた。ラントヴェーアの召集命令は40歳以下の男子全員に適用されたが、このような召集は戦時に限りなされるものとされており、平時においては違法と考えられていたからである。プロイセン国王は、邦議会第二院が1949年3月27日にパウロ教会憲法草案への支持を表明したため、これを解散した。大小ブルジョワジーとプロレタリアートを含むラインラント市民各層が、期待に反して反故にされた政治改革の擁護のために立ち上がった。 1849年5月9日、ラインラントのエルバーフェルト、デュッセルドルフ、イーザーローン、ゾーリンゲン市で蜂起が起こった。デュッセルドルフにおける蜂起は翌日の1849年5月10日に鎮圧された。エルバーフェルト市内では、蜂起は頑強さを見せ、1万5,000人の労働者が街頭に繰り出してバリケードを築き、暴動の鎮圧とラントヴェーアの徴用兵の欠員徴募のために派遣されたプロイセン軍に立ちはだかった。結局、プロイセン軍はエルバーフェルトにおいて約40人の徴用兵しか徴募できなかった。反乱を起こした市民を組織化するために、公安委員会 (Sicherheitsausschuss) が市内に組織された。公安委員会のメンバーには、エルバーフェルトの民主主義者で弁護士のカール・ニコラウス・リオッテ (Karl Nickolaus Riotte) とエルンスト・ヘルマン・ヘーヒスター (Ernst Hermann Höchster, 委員長に選出) 、エルバーフェルトで検事も務めた弁護士で自由主義者のアレクシス・ハインツマン (Alexis Heintzmann) が含まれていた。プファルツ臨時政府のメンバーには、内相を務めたニコラウス・シュミット(ドイツ語版)、テオドール・ルートヴィヒ・グライナー (Theodor Ludwig Greiner) が含まれていた。その他エルバーフェルトの蜂起の指導者としては、カール・ヘッカー(ドイツ語版)、フランツ・ツィッツ(ドイツ語版)、ルートヴィヒ・ブレンカー(ドイツ語版)がいた。 公安委員会のメンバーは、蜂起に参加していた様々な党派を統括するどころか、一般的な計画で意見がまとまることもできなかった。決起した労働者階層は一心不乱に目標に向かって邁進していた。蜂起を支援するために市民軍(準軍事組織)が組織され、その軍事的指導者には、アウグスト・ヴィリヒ(ドイツ語版)、フェリクス・トロチンスキ (Feliks Trocinski) 、クリスティアン・ツィン (Christian Zinn) 大尉が含まれていた。1849年5月17日から同18日にかけて、トリーアと隣町の労働者と民主主義者の集団が反乱軍の武器調達のためにプリュム兵器庫襲撃(ドイツ語版)を起こした。ゾーリンゲンの労働者はグレーフラートの兵器庫を襲撃して反乱軍のための武器や弾薬筒を調達した。 大ブルジョワジーは武装して街頭に繰り出してきた労働者階層を恐れ、立憲的改革運動や公安委員会の指導者を血に飢えたテロリストと呼んで分離し始めた。公安委員会の指導者は、主に小ブルジョワジーであったが、両者の間で揺れ動き始め、抗議運動の様々な党派を組織化、指導するよりも、むしろ革命運動、特に財産の破壊行為から手を引き始めた。公安委員会は改革運動を落ち着かせてデモを鎮めようと試みた。
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