プファルツ
プファルツ
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プファルツ、またはファルツ、プァルツ(ドイツ語: Pfalz, 発音例)は、以下の事物を指す。
- プファルツ地方 - ドイツ、ラインラント=プファルツ州の南部地方。州名自体の由来にもなっている。
- 宮中伯(プファルツ伯、Pfalzgraf) - 中世ドイツの爵位の一つ。
- ライン宮中伯(ライン・プファルツ伯、Pfalzgraf bei Rhein) - ライン地方を治めた宮中伯。諸侯化し、また選帝侯位を獲得してプファルツ選帝侯と呼ばれるようになった。
- プファルツ選帝侯領(クーアプファルツ、Kurpfalz) - プファルツ選帝侯が治めた領邦国家。上記プファルツ地方およびその周辺、現在のバイエルン州の一部を含んだ。
- プファルツ家 - ドイツの貴族ヴィッテルスバッハ家の支流の一つで、ライン宮中伯の家系およびその分族。
- プファルツ航空機製造会社 - 第一次世界大戦中に存在したドイツの航空機メーカー。
プファルツ
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「ドイツにおける1848年革命」の記事における「プファルツ」の解説
詳細は「プファルツ蜂起(ドイツ語版)」を参照 1849年春、革命運動が再び高まりを見せ、1849年5月6日、ラインラントのエルバーフェルトにおいて蜂起が始まった。一方、蜂起はまもなくバーデンに広まり、カールスルーエにおいて暴動が勃発した。バーデンとプファルツ(当時のバイエルン王国の一部)はライン川によって隔てられているだけであり、蜂起はライン川流域に広く展開したため、両地方の蜂起は軌を一にする運動とみられている。1849年5月、大公はバーデンのカールスルーエを離れることを余儀なくされ、プロイセンに助けを求めた。プファルツとバーデンの双方において、臨時政府の成立が宣言された。バーデン臨時政府は条件に恵まれており、民衆と軍隊から立憲的変革と民主的改革に対する強力な支持を受け、特に軍隊から憲法要求に対する強力な支持を得て、十分な武器の備蓄と財源を有していた。プファルツ臨時政府は同様の状況にはなかった。 プファルツはドイツ諸邦の中でも伝統的に上層市民を多く抱える地域であり、これらは反革命に回った。プファルツにおいては、軍隊は革命を支持せず、物資は不足していた。プファルツに成立した反乱軍の政府は組織体制も財源も万全ではなかった。プファルツにおける武器は個人所持のマスケット銃、ライフル銃、スポーツ銃等に限られていた。プファルツ臨時政府はフランスやベルギーに人員を派遣して武器購入にあたらせたが失敗に終わった。フランスはプファルツとバーデンの双方に対して武器禁輸措置をとった。 臨時政府は最初、フランクフルト国民議会議員も務めた民主主義者で弁護士のヨーゼフ・マルティン・ライヒャルト(ドイツ語版)を陸相に任命した。また、最初のプファルツ軍最高司令官には、1848年のウィーン蜂起の時に国民軍を指揮した元オーストリア軍将校のダニエル・フェナー・フォン・フェンネベルク(ドイツ語版)が就いたが、すぐに、1830年から1831年にかけてのポーランド反乱軍で参謀を務めたフェリックス・ラキエ (Felix Raquilliet) に交代した。最終的に、ルドヴィク・ミエロスワフスキ(ドイツ語版)がプファルツ軍最高司令官に、フランツ・シュナイデ(ドイツ語版)が野戦軍司令官に迎えられた。 このほか、カイザースラウテルン市内の臨時政府に仕えた将校としては、フリードリヒ・シュトラッサー (Friedrich Strasser) 、アレクサンダー・シメルフェニヒ(ドイツ語版)、ルドルフ・フォン・マントイフェル (Rudolph von Manteuffel) 大尉、アルベルト・クレメント (Albert Clement) 、レオ・フォン・ツィヒリンスキ(ドイツ語版)、フリードリヒ・ボイスト(ドイツ語版)、オイゲン・オスヴァルト(ドイツ語版)、アマント・ゲック(ドイツ語版)、グスタフ・シュトルーヴェ(ドイツ語版)、オットー・フォン・コルヴィン(ドイツ語版)、ヨーゼフ・モル(ドイツ語版)、ゴットフリート・キンケル(ドイツ語版)、アウグスト・メルシ (August Mersy) 、カール・エマーマン (Karl Emmermann) 、フランツ・シーゲル、ネルリンガー少佐 (Major Nerlinger) 、クルツ大佐 (Oberst Kurz) 、フリードリヒ・ヘッカー(ドイツ語版)、ヘルマン・フォン・ナッツマー (Herman von Natzmer) がいた。ヘルマン・フォン・ナッツマーは元プロイセン軍将校で、ベルリン兵器庫の責任者であったが、1848年6月14日のベルリン兵器庫襲撃を起こした反乱軍への発砲を拒否したため、ドイツ各地の反乱者から英雄視され、そのかどで懲役15年の判決を受けたが、1849年、脱獄してプファルツに渡り、反乱軍に加わった。グスタフ・アドルフ・テヒョー (Gustav Adolph Techow) も元プロイセン軍将校で、プファルツの反乱軍に加わった。砲兵隊を組織し、軍需工場で服役したフリッツ・アネケ(ドイツ語版)中佐は、共産主義者同盟のメンバー、1848年のケルン労働者協会(ドイツ語版)の創設メンバー、新ケルン新聞 (Neue Kölnische Zeitung) の編集者、ライン民主主義者郡委員会 (Rheinischen Kreisausschusses der Demokraten) のメンバーであった。 プファルツとドイツ各地の民主主義者は、バーデン=プファルツの反乱を全国規模の憲法闘争の一部と捉えた。臨時政府支持者で民主主義者のバーデン陸軍少尉フランツ・シーゲルは、カールスルーエとプファルツにおける改革運動擁護計画を立てた。具体的には、バーデン軍をホーエンツォレルンに進めてホーエンツォレルン共和国の成立を宣言し、シュトゥットガルトに進軍したところで決起を促してヴュルテンベルクを包囲し、さらにニュルンベルクに進軍してフランケンに陣取ることを提言した。憲法闘争に全国的性格を付与するために遠方のフランクフルト国民議会と交渉しようとしたシーゲルだったが、聞き入れられなかった。 シーゲルの計画にもかかわらず反乱軍の新政府は攻勢に出ることなく、カールスルーエないしバーデンにおける蜂起はついにプロイセン軍によって鎮圧されることとなった。同政府ではバーデンの民主主義者で弁護士のロレンツ・ブレンターノ(ドイツ語版)が長に就き、絶対的権力を行使していたほか、陸相にカール・アイヒフェルト (Karl Eichfeld) (後にルドルフ・マイヤーホーファー (Rudolph Mayerhofer) に交代)、内相にフロリアン・メルデス(ドイツ語版)が任命され、その他の臨時政府のメンバーにはバーデンの民主主義者でジャーナリストのヨーゼフ・フィックラー(ドイツ語版)が含まれていた。バーデンの憲法闘争軍の指導者にはバーデンの民主主義者でジャーナリストのカール・ブリント(ドイツ語版)とグスタフ・シュトルーヴェ(ドイツ語版)が含まれており、ヨハン・フィリップ・ベッカー(ドイツ語版)が民兵隊の指揮に当たり、1830年から1831年にかけてのポーランド蜂起で軍事作戦に加わったポーランド人のルドヴィク・ミエロスワフスキ(ドイツ語版)がライン川左岸の軍事作戦の指揮に当たった。 ブレンターノがバーデンにおける蜂起について日々事務処理を行い、ミエロスワフスキがライン川左岸の軍事司令部を指揮したが、両者の足並みはそろっていなかった。足並みの乱れが続いたことで、ミエロスワフスキはバーデンのワーグホイゼル(ドイツ語版)とウプシュタット (de:Ubstadt) における戦闘で敗れた。その部隊はバーデン南部の山脈を越えて撤退することを余儀なくされ、バーデンとスイスとの国境地帯にあるムルク(ドイツ語版)という町でプロイセン軍との最後の戦闘を交えた。ミエロスワフスキ以下戦闘の生存者は国境を越えてスイスへ逃れ、ミエロスワフスキはパリに亡命した。 バーデンとプファルツにおける蜂起にはフリードリヒ・エンゲルスも加わっている。エンゲルスはカール・マルクスとともに、1848年5月10日にケルンから同地の出来事を視察するために訪れ、1848年6月1日から新ライン新聞の編集者となったが、それから1年足らずの1849年5月19日に憲法闘争を支持したかどでプロイセン当局によって発行停止に追い込まれた。 1848年末、マルクスとエンゲルスは、当時バーデンとプファルツの臨時政府のメンバーとして務めていたカール・ルートヴィヒ・ヨハン・デスター(ドイツ語版)との会見に臨んだ。デスター医師は民主主義者、社会主義者で、共産主義者同盟ケルン支部のメンバーとなり、1848年にプロイセン国民議会議員に当選し、1848年10月26日から同30日までベルリンで開催された第2回民主主義者会議(ドイツ語版)において、エドゥアルト・フォン・ライヒェンバッハ(ドイツ語版)、アドルフ・ヘクサマー (Adolf Hexamer) らとともにドイツ民主主義者中央委員会 (Zentralausschusses der Demokraten Deutschlands) 委員に選出されていた。デスターは臨時政府のことにかかりきりで、パリにおける重要な会合の際にドイツの中央委員会を代表して出席することができないため、自分に代わって会合に出席することをマルクスに委任したいと考えた。三者はカイザースラウテルン市内で会見し、マルクスは委任を受け入れてパリに向かった。 エンゲルスはプファルツにとどまり、1849年、ラインラントのエルバーフェルトで、蜂起の鎮圧に来ようとしていたプロイセン軍との対決に備えてバリケードを築いていた市民に合流した。エンゲルスはエルバーフェルトへの道中、ゾーリンゲンの労働者がグレーフラート(ドイツ語版)の兵器庫を襲撃して集めたライフル銃の弾薬筒2包を受け取った。プロイセン軍が到着し、8月には蜂起を鎮圧することとなった。エンゲルスとその他もろもろはカイザースラウテルンに逃れた。カイザースラウテルン滞在中の1849年6月13日、エンゲルスは、元プロイセン軍将校アウグスト・ヴィリヒ(ドイツ語版)が800人の労働者で組織した軍団に参加した。ヴィリヒは共産主義者同盟のメンバーでもあり、ドイツにおける革命的変革を支持していた。新たに組織されたヴィリヒの部隊はその他の革命勢力と連合して約3万人の兵力となり、精鋭のプロイセン軍に抗戦した。エンゲルスはプファルツにおけるヴィリヒの部隊の戦闘に全面参加した。 プロイセン軍は革命軍を破り、ヴィリヒの部隊の生存者は国境を越えてスイスの安全地帯に逃れた。エンゲルスは1849年7月25日にスイス入りし、自身の生存をロンドンのマルクスや友人や同志に伝えた。スイス亡命中、エンゲルスは革命中の自身の体験について執筆し始め、「ドイツ国憲法戦役」 (Die deutsche Reichsverfassungskampagne) を刊行した。プロイセン軍が難なく蜂起を鎮圧したことで、多くの南ドイツ諸邦では今後オーストリアではなくプロイセンが域内で台頭するだろうと信じられるようになった。バーデンとプファルツにおける蜂起の鎮圧をもって1848年春に始まったドイツにおける革命的闘争に終止符が打たれた。
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