民兵隊の指揮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/08/29 06:09 UTC 版)
1780年5月のチャールストン包囲戦と同年8月のキャムデンの戦いの間で、ノースカロライナ・ライン(ノースカロライナの大陸軍部隊全体に関わる、拘束力の弱い組織)は事実上効力を失くしており、かなりの損失を出し、また多くの兵を捕虜に取られていた。この期間の少なくとも一部で、サムナーはノースカロライナにあって徴兵活動に当たっていた。ノースカロライナ議会はノースカロライナ・ラインを再構築するよりも、邦を守るために民兵隊に頼ることにした。1780年9月、州全体の民兵隊をリチャード・キャズウェルが指揮する下に、サムナーは一時的にヒルズボロ地区民兵隊の指揮官に派遣された。サムナーはノースカロライナ民兵旅団の指揮官として、イギリス軍チャールズ・コーンウォリス将軍の侵攻に対して邦を守る任務を与えられた。しかし、民兵は装備がお粗末であり、また訓練も積まれていなかった。 1780年後半、ノースカロライナ戦争委員会は、ノースカロライナ民兵隊の指揮官からカズウェルを更迭し、議会はメリーランド出身のウィリアム・スモールウッド大陸軍准将に民兵隊の指揮を任せた。議会はその民兵隊の指揮官に信頼感を失くしていた。南部戦線で勢力を落としているノースカロライナ大陸軍の指揮までがスモールウッドに与えられたとき、サムナーは不快を感じた。アレクサンダー・マーティンその他から慰留されたものの、1780年10月、サムナーは民兵隊指揮官を辞任し、大陸軍の任務に戻った。キャズウェルやマーティンのような著名な民兵隊指揮官およびその支持者によて政治的な挫折があり、サムナーの辞任から間もない時期に議会は戦争委員会を廃止し、特にキャズウェルは「非常時委員会」と呼ぶ戦争委員会に変わる組織で権力の座に復帰した。
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