独立戦争の後半
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1777年7月1日、カールトンは知事職辞任を願い出たが、ロンドンは後任が到着するまでその地位に留まることを求めた。1778年6月に後任のフレデリック・ハルディマンドが到着した。カールトンはアイルランドのシャールモント知事に指名されていたのでイングランドに向かった。ハルディマンドの最初の仕事はセントローレンス川に浮かぶバック島を要塞化し、カールトン島と改名させることだった。 1781年10月にヨークタウンの戦いでチャールズ・コーンウォリスが投降した後の1782年2月22日、カールトンは北アメリカ軍総司令官に指名され、5月6日にニューヨーク市に到着し、ヘンリー・クリントン将軍の跡を継いだ。国王の言に拠れば、カールトンはイギリス軍兵士に尊敬されており、議会からは正直な男という評判があったので選ばれたということである。
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独立戦争の後半
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「グリフィス・ラザフォード」の記事における「独立戦争の後半」の解説
ラザフォードは釈放された後、1781年9月にソールズベリーに戻り、自家がイギリス兵によって荒されたことが分かった。1781年の夏にその家族と短期間再会した後、1,400名のノースカロライナ民兵隊の指揮を執った。新しい民兵を訓練した後、ロイヤリスト民兵や町を容赦なく攻撃し始めたとされている。このことは上官であるグリーン将軍に送られた幾つかの報告書に拠るものである。このことはグリーンを大いに失望させ、そのような行動は多くの人々をロイヤリスト側に就かせるだけのものであり、別の戦略を考えるべきだとラザフォードに伝えた。これら報告書は後に真実ではないことが分かった。ラザフォードは小さなロイヤリスト民兵隊から、ウィルミントンのイギリス軍宿営地と周辺民兵隊に標的を変えており、ラフト湿地のロイヤリスト隊攻撃から始めた。10月と11月、ラザフォードはロイヤリストをウィルミントンに追い込み続け、最終的に市を囲み、イギリス軍の通信線と供給線を断つことに成功した。イギリス軍の指揮官クレイグ少佐は間もなくヨークタウンでコーンウォリスが降伏したことを知らされ、ウィルミントンの自部隊も慌てて撤退させた。 1782年、ラザフォードはウィルミントンでの成功に続いて、西部でチカマウガ族と再度戦った。7年前に辿ったのと同じ経路を進んだ。その道には兵士たちが印を付けていた。この作戦について文書になった記録は残っていないが、最終的には成功だった。
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