独立戦争の始まりとヴァージニア権利章典
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「ヨーロッパにおける政教分離の歴史」の記事における「独立戦争の始まりとヴァージニア権利章典」の解説
「アメリカ独立戦争」および「ヴァージニア権利章典」も参照 1763年2月のフレンチ・インディアン戦争(ヨーロッパでは七年戦争)の終結後、イギリス本国政府は植民地政策を転換し、従来の「有効なる怠慢」の政策を改めて植民地への介入を強化する方針に転じた。また、莫大な戦費に苦しんだ本国が植民地の人々にもそれを負担させようとして課税を強化した。この課税に対する反対運動がアメリカ独立戦争の起点となった。1765年、イギリス本国の第一大蔵卿ジョージ・グレンヴィルは大衆課税である印紙法の制定に踏み切ったが、13植民地は「代表なくして課税なし」と主張して同法に反対し、撤回させた。しかし、本国議会は1773年に茶法を制定し、インド支配拡大にともなう財政負担にあえぐイギリス東インド会社にアメリカでの茶貿易の独占権を与えた。このとき、それに抗議する人々がボストン港に停泊する東インド会社の船を襲撃して茶箱を海に投げ込む「ボストン茶会事件」が起こり、植民地と本国の対立は決定的なものとなった。反イギリス勢力に厳しい報復措置を取ろうとする本国政府に対し、13植民地の代表は1774年に大陸会議を開いて抗議し、各植民地間の連携を固めて本国に対抗した。各植民地では植民地協議会が召集されて大陸会議の決定を承認し、大陸同盟が実行に移された。ペンシルヴェニア植民地の協議会は、西部地域のスコッチ・アイリッシュらの支持をすでに獲得していた。フィラデルフィアでは1774年にクエーカー教徒、国教会の信徒、スコッチ・アイリッシュの3集団が集まり、抗議運動の連帯を固めたが、これには職人・小売商の団体やドイツ系、バプテスト教徒も参加した。 1775年、ボストン郊外のレキシントンとコンコードで本国軍との武力衝突が起こると、フィラデルフィアで第2次大陸会議が開催された。ジョージ・ワシントンが植民地軍総司令官に任命された一方、ジョン・ディキンソンら穏健派はなおもイギリス政府との和解を追求し、平和の象徴をその名に冠した「オリーブの枝請願」を本国に提出することについて同意を得たが、ジョージ3世は請願を受け取ることすら拒否して北米が反乱状態にあると宣言し、翌年1月にはドイツ人傭兵隊の北米派兵に踏み切った。こうして、植民地人が抱いていた国王への期待も失われ、アメリカ独立戦争が本格化した。 1776年6月12日、ヴァージニア権利章典が公布された。ジョージ・メイソンを主たる起草者とするこの文書は、近代的な意味での最初の権利章典であるアメリカ権利章典の先駆けとなり、同年6月29日採択のヴァージニア憲法をはじめ他の連邦国家の州法もこれにならって作成された。 第1条 すべての人は生まれながらにして等しく自由で独立しており、一定の生来の権利を有している。それらの権利は、人々が社会のある状態に加わったときに、いかなる盟約によっても、人々の子孫に与えないでおいたり、彼らから奪うことはできない。すなわち、財産を獲得して所有し、幸福と安全を追求して獲得する手段と共に生命と自由を享受する権利である。 第2条 あらゆる権力は人民に与えられ、それゆえに人民から得られる。行政官は人民の被信託者であって僕であり、常に人民に従うものである。 第16条 宗教、あるいは創造主に対する礼拝とその方法は武力や暴力によってではなく、理性や確信によって指示を与えられるものである。それゆえにすべての人は等しく良心の命じるままに従い、信教の自由をおびる権利を有する。他の者との間にキリスト教的自制、愛情および慈善を実行することは、あらゆる者の相互の義務である。 ヴァージニア権利章典では、以上のように自然権、社会契約説にもとづいた主権在民、良心の自由・信教の自由が明記された。
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