独立戦争の意義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 06:01 UTC 版)
ビザンツ帝国の崩壊以降、ギリシャは隷属を余儀なくされていた。しかし、1800年にイオニア七島連邦共和国が成立し、3世紀半ぶりにギリシャ人らは政治を味わった。ただし、この国は列強三国イギリス、フランス、ロシアの思惑の中にあったため、非常に限られた権限と限られた期間しか成立しなかった。しかし、このイオニア七島連邦国の成立はそれ以降、1世紀に渡る東方問題の切っ掛けになったのは間違いなかった。 その一方で、当時、ナポレオンの出現により民族意識の覚醒が始まっていたが、これを抑えるために列強諸国はウィーン体制を築いて旧秩序の維持を図っていた。しかし、バルカン諸民族はこれに逆行する活動を行いながらも列強等の支援をあてにしており、神聖同盟を結んでいた列強らも結局、これを支援することになった。これは神聖同盟とイスラムとの対立という図式を明確にし、さらにその後もバルカン半島へ列強等が干渉する予兆となった。その一方でウィーン体制はギリシャ独立によって動揺がもたらされ、1848年に至って1848年革命が発生すると崩壊する。そしてそれまでヨーロッパの宰相と呼ばれたメッテルニヒの凋落もここから始まる。 しかし、当時、ギリシャ人という民族が存在するのかという議論が行われることさえあったように、ギリシャの独立は現実的ではなく、ロシア、オーストリア、イギリスやフランスの属国化、イオニアのアリー・パシャの占領地化、はたまたオスマン帝国の地方領のいずれかになると思われた。しかし、列強の対立により、ギリシャは再び脚光を浴びた。 さらにバルカン半島諸民族による民族運動の中心人物は知識人、商人、僧侶らが中心となってきっかけをつくった。そのため民族運動の中心人物はあくまでも彼らであり、腐敗したオスマン帝国下で収奪された農民らは反乱を起こし、一部はゲリラ化したにすぎなかった。しかも、彼らは民族意識や政治思想から活動したわけではなかったが、彼らの行動は後のレジスタンスの伝統を創りだすことになり、独立戦争や民族活動において大衆的基盤を形成する。 その結果、バルカン半島において最初に自治権を得たのはセルビアであったが、完全独立を果たしたのはギリシャであった。この独立はその後始まるバルカン諸民族の独立の序章でしかなかったが、当初はワラキア、モルドバで開始され、バルカン諸民族全体の解放を目指すものであった。また、独立戦争に参加した諸勢力の利害関係や性格の面で多様性が見られること、列強の干渉に依存したこと、国民の大多数である農民らが独立戦争においても、その後の建国後の活動においても取り残されていたということからある意味、ブルジョア革命であったが、モルドバ、ワラキア両公国の反乱と関連したことから民衆運動の側面もあり、バルカン近代史の一環であったと考えられ、セルビア、ギリシャと続いた革命はルーマニア、ブルガリア、マケドニア、トラキア、アルバニアでの民族解放闘争の開始にいたり、第一次世界大戦開戦にいたるまでのバルカン半島の歴史そのものであった。 その一方でギリシャは独立を確保したと云えどもその地域は限られており、オスマン帝国で特権を得ていたファナリオティスらもそれを失った。そしてさらにギリシャ商人らの地位も低下した。そしてオスマン帝国の報復は激しく、1821年のコンスタンティノープル総主教処刑に始まり、イズミル、エディルネ、テッサロニキ、キプロス島、ロードス島、クレタ島などで虐殺が行われた。 そしてこの多くの同胞を国外に残したことは後にメガリ・イデア(大ギリシャ主義)を生み出し、先に成立していたセルビア、後に成立するブルガリアなどと民族主義に基づいた対立を生じ、バルカン半島は火薬庫と化す。 また、親ギリシャ主義の台頭により詩人バイロンのような著名人が参加したこともあり、国際的な注目を浴びたことからバルカン諸民族の独立における目立った存在となった。
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