独立戦争へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 01:58 UTC 版)
「有益なる怠慢」と呼ばれた植民地支配が転機を迎えたのは、フレンチ・インディアン戦争であった。この戦争で勝利したイギリスは、1763年宣言でアパラチア山脈を越えての植民地人の進出を規制した。これが、「イギリス人」として戦争に協力した植民地人の怒りを買うこととなった。イギリスは戦費支出の増大による財政難から、それまでの緩やかな植民地支配から厳しい産業統制に転じ、砂糖法(1764年)、印紙法(1765年)などを施行して13植民地に対する課税を強化した。これに対し、イギリス議会に代表を持たない植民地議会は「代表なくして課税なし」ととなえて抵抗し、一連の税法を廃止に追いこんだ。しかし、イギリス議会は1773年に東インド会社に茶取引を独占させる茶法を制定したため、植民地側の不満が頂点に達し、インディアンに扮した植民地人が、ボストンに入港したイギリス船内の茶を海に投棄するボストン茶会事件が起こった。イギリス側はボストン港閉鎖などでこれに対処したため、1774年、13植民地は大陸会議を開いた。1775年、両者はついにレキシントン・コンコードの戦いで武力衝突し、植民地軍はジョージ・ワシントンを総司令官に選んでアメリカ独立戦争に突入した。
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