独立戦争前の政治活動
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「サミュエル・アダムズ」の記事における「独立戦争前の政治活動」の解説
1761年までにアダムズはボストン町民会議の積極的な一員となっていた。間もなくアダムズは「ホイッピングポスト・クラブ」とボストン南縁幹部会議にも参加した。この組織は選挙で選ぶ吏員の候補者を推薦する力があった。アダムズはまず植民地課税に対する運動で中心人物となった。インドの様な突然の領地拡大やフレンチ・インディアン戦争の戦費で増大した負債の支払いのために、イギリスは植民地を歳入の拡大源と見ていた。1764年4月5日、イギリスの第一大蔵卿ジョージ・グレンヴィルは議会で砂糖法を通過させた。当初はボストンを始め植民地からは表だった抗議が無かった。税金は既に商品価格に盛り込まれており、税の多寡に関する関心の欠如に導くことになった。しかし、アダムズは砂糖法自体と彼がイギリスの不当な行動として認識しているものに対して民衆が声を上げないことに愕然とさせられた。アダムズはマサチューセッツ議会のボストン選出代議員であるジェイムズ・オーティスとオクセンブリッジ・サッチャーの2人と会見した。アダムズは砂糖法が植民地人の権利を侵害しており、この動きが植民地の同意なしに行われるべきではないことを2人に分からせようとした。アダムズは抵抗も無しにいることが更に課税を強化し、更に役人が増え、植民地議会を無用のものにすると信じていた。 アダムズは町民会議で彼の意見の支持者を増やし続けた。最終的にボストン市民の多くの支持を得て、マサチューセッツ議会で税に抗議するために4人からなるボストン代議員に渡す指示書を整えるよう指名された。アダムズは指示書の中で、議会は何故この法律がイギリス自体にとっても有害となるか十分な理由を見つけるべきこととした。アダムズはこの税金がアメリカ植民地人の自由を直接攻撃していると示唆した。 「 我々の交易に課税されるのならば我々の土地はどうなのか? 我々の土地から生み出されるものは、所有する者は、それを使って作るものは? この法律は我々の憲章に謳われている治める権利、自身に課税する権利を無効にするものと理解する。これは我々が決して奪われることの無かったイギリス人としての権利を侵すものである。 」 アダムズが書いた指示書はイギリス議会が植民地に課税する権利に疑問を投げかける最初の公的文書となった。 この文書は、イギリスに対してアメリカ植民地の団結を呼びかける最初のものともなった。ジェイムズ・オーティスや彼の側近と共にアダムズの指示書は新聞やパンフレットの形で出版された。オーティスはアダムズの指示書を議会で公表し1764年7月14日に議会承認を得た。議会はイギリスの行動を議論する公式会議の提案も行ったが、マサチューセッツ総督フランシス・バーナードによって議会が閉鎖された。バーナードはマサチューセッツ憲章で認められている権限を使って議会を閉鎖し、砂糖法に対する抗議を防止できると期待していた。バーナードのこの行動にも拘わらず、アダムズの指示書は植民地中に広まり、植民地課税に対する戦いの基本となっていった。ボストンではアダムズが土地の商人を説得して、輸入されたイギリス製品のボイコットをさせていた。12月6日、3年間の交際を経て、アダムズはエリザベス・ウェルと結婚した。 1年後に新しい税法、印紙法が提案された。この法は書籍を除く政府文書や他の印刷された文書に政府の印紙を貼ることを要求するものだった。この印紙法の知らせが植民地に届いたとき、非難の嵐が起こった。アダムズはイギリスの植民地に対する課税政策に抗議しアメリカ植民地人の「かけがえのない権利と自由」の防衛意識を高揚する文書の作成にかかった。アダムズは再びオーティスのもとに出かけた。二人は他の植民地代議員と協力してこの法律を議論する印紙法会議を作った。フランシス・バーナードが1765年5月に議会を再開すると、オーティスは印紙法会議を手段にしてイギリスに対する植民地の結束を訴える議案を提出した。マサチューセッツ議会がこれを承認し、印紙法会議への招待状が各植民地会議議長に発送された。当初その招待にはニュージャージーやニューハンプシャー議会から辞退の返事が届いた。しかし、サウスカロライナが法の審議のためにマサチューセッツに加わることを決めると、他の9植民地が続いた。会議は10月に開催された。印紙法会議では多くの決議が行われ、イギリス国王ジョージ3世と議会に対して請願書を書き上げた。一方、11月に効力を発揮することになる印紙法に対し、植民地で多くの抗議行動が起こっていた。ボストンを中心としたデモ行動がバーナード総督の注意を引いた。抗議が激しくなることを予測したバーナードは印紙法がマサチューセッツには適用されるべきでないと述べた。オクセンブリッジ・サッチャーが死ぬと、アダムズはその欠員を補う選挙に打って出た。最初の投票は接戦であったために無効となり、2回目の投票でアダムズは265対18の大差で選ばれた。 アダムズはボストン町民集会でもマサチューセッツ議会でも尊敬される指導者となった。アダムズの決議文は、植民地に対するイギリス議会の権威について公然と反論するものであった。 「 我々の植民地議会以外の力で作られた住人に税を課すあらゆる法律は、我々イギリス臣民の持って生まれ不可分の人権を侵し、我々の憲章の最も価値ある宣言を無効にするものである。 」 アダムズは議会に出てその決議文の承認を求めた。議会はアダムズの声明を決議し、マサチューセッツ決議として知られるものになった。この頃の多くの政治活動の結果、トマス・ハッチンソンのようなイギリスよりの指導者達は、アダムズがマサチューセッツ議会を牛耳っていると感じ始めた。マサチューセッツ決議に対するイギリスの反応は前向きのものとはとても言えず、決議を「ひと組の野卑な熱血漢のたわごと」として無視するものであった。予想通り、印紙法は1766年11月1日より発効となった。アダムズが予想していたようにボストン中に抗議の声が上がり、イギリスの商人達は印紙法の撤廃を求め始めた。アダムズはイギリスの人々にも彼の支持を求めた。アダムズは税金が植民地経済に害となり、将来多くのボイコットが交易関係を損なうと主張した。遂にイギリスの商人達がジョージ3世とイギリス議会を説得してこの税法を撤廃に追い込んだ。1766年5月16日、撤廃の知らせがボストンに届いた。町中がお祭りとなり、アダムズはイギリス商人達の努力に感謝の声明を発した。同じ月のマサチューセッツ議会議員選挙で、アダムズと、オーティスおよび、トマス・クッシングが再選され、ジョン・ハンコックが新たに選ばれた。 2年後、アダムズはマサチューセッツ議会の公式声明となることを目ざした随筆を書いた。この随筆では、植民地の力、自由、地方自治、立法府の一時停止などを論述した。議会はその随筆を慎重に吟味し、修正を加えた。多くの審議の後の1768年1月12日、議会はその声明を承認し、国王と内閣に送付された。アダムズはこの時、アメリカの方針を現す回状を書いて各植民地の承認を求めようと決めた。1月21日、アダムズは議会の支持を求めたが、議員の間に不安になる者が増えており結局その計画を投票で廃案とした。アダムズは仲間の代議員を回って回状に対する支持を求めた。2月4日に行われた投票では圧倒的多数で可決された。植民地の回状に対する反応は前向きであり、その結果マサチューセッツ請願と共にロンドンでトマス・ホリスによって出版された。ホリスはアメリカを応援するイギリスの出版業者であり、「アメリカの本当の感情」の題でこれらを世に出した。この出版はアメリカでもイギリスでも多くの読者に衝撃を与えた。イギリスはこれが反逆行動であると感じ、「陸軍と艦隊を送れ」 という叫びになった。1768年5月イギリスはボストンに軍隊を派遣した。 アダムズが繰り返し唱えた人民の「固有で不可分の権利」 は共和主義の中核となる要素になった。アダムズは1774年まで議会の事務官としての活動を続け、その中で様々なイギリス政府の立法に対する抗議文書を作る責任を任された。イギリス軍のボストン駐在は、アダムズの組織した非輸入協会の様な抗議行動で悪化し、1770年のボストン虐殺事件(この命名はアダムズによる)に繋がった。この事件の後、アダムズは町民集会で議長を務めて請願書を起草し、総督代行のトマス・ハッチンソンに提出して、ボストンから2個連隊を排除するよう要求した。ハッチンソンは初め、臨時の総督という立場にあることで、この問題には何の責任も無いと表明したが、後に1個連隊は動かすという意志を表明した。集会が再招集され、アダムズは5,000名以上の聴衆を前に「2個連隊か無かだ」という断固とした声明を発した。戦争になることを恐れたハッチンソンは2個連隊をボストン港にある島の古い砦、キャッスルアイランドに移した。この連隊はそれ以後のイギリス議会では「サム・アダムズの連隊」として知られることになった。 1772年、判事の給与は植民地議会ではなくイギリス政府によって支払われるという宣言がなされ、ボストンの人々がこの問題を再考するための特別議会の開催を求めたが、ハッチンソンが拒絶した。アダムズが通信委員会の仕組みを発案したのはこの時である。マサチューセッツの町々は委員会の通信網を通じてイギリスの行動を記録した伝言を送り政治問題に関する相談をすることになった。この考え方は技法的にイギリスの法律に則っていたが、事実上の植民地政体の形となった。この仕組みが13植民地でも採用され大陸会議を生むことになった。
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