独立戦争の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 05:59 UTC 版)
「フィリキ・エテリア」の記事における「独立戦争の開始」の解説
「ギリシャ独立戦争」および「ワラキア蜂起」も参照 1818年になるとフィリキ・エテリアの本部はオデッサからイスタンブールに移動した。スクファスの死後、誰を指導者とするかが問題となっていた。そしてさらにエテリアはロシアに接近して援助を獲得しようと考えていた。 そのため1809年からロシア皇帝アレクサンドル1世の外務次官を務めており、イオニア七島連邦国で行政に携わっていたイオアニス・カポディストリアスへ総司令官への就任を2回に渡って要請した。しかし、カポディストリアスは外交経験が豊富でウィーン会議にも参加したことから、ナポレオン時代のヨーロッパの勢力均衡を壊す可能性のあるフィリキ・エテリアの願望が失敗することが容易に想像できたことから、これを断った。 その後1820年4月にファナリオティス出身のロシアの将校、自由主義者でフリーメーソン会員でもあったアレクサンドロス・イプシランディスがクサントスの要請を受諾し指導者に選ばれた が、これにより保守主義者らがエテリアの主導権を握ることとなった。彼はそれまで不明確であったエテリアのギリシャ解放を計画、軍事蜂起に向けて準備を整えていった。 エテリアは保守主義者らが主導権を握っていたが、革命主義者らは1820年に派生したイオアニアのケマル・パシャの反乱などオスマン帝国各地で発生している太守(パシャ)らの反乱などオスマン帝国の弱体化が進んでいる事から革命に躊躇している人々の説得に成功、革命を行なうことを宣言した。 翌1821年3月6日にイプラシンディス率いる一隊がロシア・オスマン帝国国境のプルト川を渡りモルドバへ侵入、、モルドバ、ワラキアで革命を宣言した。これと機を一にしてギリシャ本土、ペロポネソス半島、エーゲ海の島嶼などでディケオス・パパフレサスや各結社らが革命を宣言、ギリシャ独立戦争が開始された。反乱軍は23日にペロポネソス半島の都市カラマタを制圧し、マケドニア、クレタ島、キプロスなどにまで反乱は広がったが、後にペロポネソス半島、ギリシャ本土、その周辺の島々、エーゲ海島嶼部ではサモス島のみなどに活動が限られる結果に至った。 しかも、ギリシャの独立に焦点が絞られていたため、イプラシンディスの軍は現地の住民からの支援を受ける事ができず、エテリアに協力して蜂起したワラキアのトゥドル・ウラジミレスクなどはロシアが革命に否定的であることを感じるや否やギリシャ独立とは別にワラキアの独立を目的とした。そのためウラジミレスクはイプシランディスに捕らえられ処刑された。そのため、ワラキアはオスマン帝国軍によって速やかに鎮圧された。 イプシランディスの行動に対して列強国は冷淡な態度を示した。特にフィリキ・エテリアが支援を期待していたロシアはイプシランディスのロシア軍籍を剥奪、オスマン帝国軍がフィリキ・エテリアを鎮圧する事を許可した。そのため孤立化したイプシランディスらは6月にドラガシャニの戦いでオスマン帝国軍に敗れて壊滅、オーストリアへ逃亡したイプシランディス自身も当地で逮捕された。しかし、反乱そのものはギリシア全土にさらに広がり継続していった。
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