ファナリオティス
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ファナリオティス(ギリシア語: Φαναριώτης)は、オスマン帝国時代に帝国の通訳官、およびワラキア・モルダヴィア両公国の公などの地位についたイスタンブール在住のギリシャ系正教徒の特権的階級のことである。
概説
ファナリオティスは「ファナルの人」を意味し、イスタンブール旧市街北西部の金角湾に面したファナル地区(Phanar, 現代トルコ語ではフェネル)にまとまって居住していたことに由来する。現代ギリシャ語では phanarioti あるいは phanariotes と呼ばれ、日本では英語から取り入れられたファナリオット (fanariot)という名前で呼ばれることも多い。
ファナル地区は、コンスタンティノープル陥落後にオスマン帝国によって、もと聖ソフィア聖堂にあったコンスタンディヌーポリ総主教座が移された場所である。このためオスマン帝国時代初期の15世紀以来この地区にはギリシャ系の正教徒たちがまとまって住み着くようになったが、彼らの中から経済的にはイスラム法で利子を禁じられているムスリム(イスラム教徒)にかわって手を染めた金融業に成功して富を築き、政治的にはオスマン帝国に役人として仕える家系があらわれるようになった。彼らは貴族的な階層となってオスマン帝国下の正教徒社会に影響力を持つようになり、ファナリオティスと総称された。
その後、プルート戦争(大北方戦争)が行われた1711年に、オスマン帝国の属国であるモルダヴィア公国のディミトリエ・カンテミール公がルーマニアに侵入してきたロシアのピョートル1世に寝返りオスマン帝国に反旗を翻す事件が起こった。これまでモルダヴィアでは、土着のルーマニア人の貴族たちの間から公を選ばせ帝国が公認することになっていたが、ロシアに隣接するモルダヴィアがロシアの影響下に入ることを怖れたオスマン帝国はこれ以降、ルーマニア人と同じ正教徒ながら帝国に忠実であると考えられるファナリオティスの中からモルダヴィア公を選ぶことにした。1715年にはモルダヴィアの南のワラキアでもファナリオティスが公に任命され、その後100年に渡りルーマニア人の両公国はともにギリシャ人であるファナリオティスの支配を受けることになった。
18世紀末頃になると、通訳官として西ヨーロッパ諸国からオスマン帝国に派遣された外交官たちと日常的に接するファナリオティスの間から、西ヨーロッパで誕生した民族主義の影響を受けてギリシャ民族としての自覚を持つ動きがあらわれるようになった。のちにファナリオティスの一部が支援して誕生した秘密結社フィリキ・エテリアが1821年にルーマニアで蜂起したことをきっかけにペロポネソス半島のギリシャ人が反乱を起こしてギリシャ独立戦争が始まり、1830年に半島部のギリシャ王国としての独立を勝ち取る。
しかし独立戦争への関与はファナリオティスへの帝国の信任を失わせることになり、ルーマニア両公国の公への任命も打ち切られた。ギリシャ独立以降、多くのファナリオティスがイスタンブールを去ってギリシャへ移住していった。
オスマン帝国はファナリオティスに代わる通訳官としてムスリム、トルコ人の若手官僚にフランス語などヨーロッパの言語と学問を学ばせるようになり、やがて彼らがタンジマートの担い手として帝国の近代化を進めることになる。また、イスタンブールにおける金融業はアルメニア人が引き継いでゆき、19世紀末の大規模なアルメニア人迫害を迎えることになる。
外部リンク
ファナリオティス
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「トルコクラティア」の記事における「ファナリオティス」の解説
ギリシャ人らはキリスト教という範囲だけで影響力を手に入れたわけではなかった。世俗的な部分でもギリシャ人らは影響力を持っており、その有力者らは主にコンスタンティノープルのフェネル地区に居住したため、ファナリオティス(ファナリオット)と呼ばれた。ファナリオティスらは様々な言語を解していたため、オスマン帝国内でも通訳官としてその能力を発揮した。 当初はムスリムへ改宗したものを通訳官として用いていたが、17世紀以降、ラテン語、イタリア語を話すことができるギリシャ系正教徒らが通訳として用いられ始め、1699年に結ばれたカルロヴィッツ条約にアレクサンドロス・マブロコルダトス (en) が参加以降、御前会議主席通訳官(ディーヴァーニ・ヒューマユーン・パシュ・デルジュマヌ)の役職を独占していった。後にはオスマン艦隊の大都督の通訳官の職も得ることになった。 そして1709年、現在のルーマニア地域にあったワラキア公国、モルダヴィア公国のヴォイヴォダ(君侯)にニコラオス・マヴロコルダトス (en) が就任して以降、多少の例外はあったが、御前会議主席通訳官がヴォイヴォダに任命されるのが通例となって行った。ただし、これらの役職もマヴロコルダトス家 (en) 、カラジャス家、ムルジス家 (en) 、スツョス家、カリマヒス家、ギガス家 (en) などが独占していった。 さらにオスマン艦隊の大提督は地中海州の総督を務めていたが、この地域にはギリシャ系住民が大勢居住しており、その主席通訳官であるファナリオティスらは強い影響力を持つことになった。そしてロシアが台頭し、西欧諸国との交流が重要な位置を占めるようになると通訳を担当する彼らの地位も向上し、さらにはオスマン帝国内に設置された西欧諸国やロシアの大使館などの通訳を司るものまで現れた。これらの事はファナリオティスらがオスマン帝国の中でもっとも有力なギリシャ系臣民であることを意味していた。
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