躍進するギリシャ軍 -ギリシャ独立戦争第一期-とは? わかりやすく解説

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躍進するギリシャ軍 -ギリシャ独立戦争第一期-

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:00 UTC 版)

ギリシャ独立戦争」の記事における「躍進するギリシャ軍 -ギリシャ独立戦争第一期-」の解説

オスマン帝国直ち反乱の鎮圧目指し反乱阻止ができなかったとしてコンスタンディヌーポリ総主教グリゴリオス5世処刑、さらに有力なファナリオティスであったコンスタンディノス・ムルジスらを虐殺、そしてファナリオティスらが独占していたモルドバ・ワラキア両公国の公位(ホスポダール)も剥奪ファナリオティスらは凋落することになったギリシャ軍果敢に戦い1822年には海上においてコンスタンティノス・カナリス (en) 率いギリシャ火船(πυρπολικά or μπουρλότα)がオスマン帝国海軍撃破すると、6月にはアテネのアクロポリス占領7月に至るとコロコトロニス率い部隊がデルヴェナキアでメフメト・アリ・パシャ率い部隊撃破した。そのため、1823年に至るとオスマン帝国軍アクロコリンソス放棄メソロンギでも敗北した。 しかし、これらの有利な状況があったにもかかわらず反乱軍オスマン帝国との争い決着がつかなかった。これは独立戦争開始直後ペロポネソス半島アレクサンドロス・イプシランディスの弟でフィリキ・エテリア後継者であることを主張していたディミトリオス (en) と名望家らが、大陸ギリシャ西部ファナリオティス出身のアレクサンドロス・マヴロコルダトス (en) の西部ルーメリ議会が、大陸ギリシャ東部ファナリオティス出身のテオドロス・ネグリス(Theodoros Negris)の東部ルーメリ・アレオパゴス(東部ルメリ最高会議) (en) がそれぞれ政府樹立ギリシャ人意思統一されていなかったためであった。さらに悪いことにこの三分裂状態も必ずしも固定されておらず、時には個人社会集団地域によって党派組まれることがあった。 彼らはギリシャ解放という目的でしか一致しておらず、また、ギリシャ解放参加していた人々オスマン帝国多少違いはありえども依存しているのは間違いなかった。一方で名望家徴税与えられており、船主らは海運業で、クレフテスらは匪賊としてオスマン地主らを襲い、そしてアルマトリ(国境警備隊) (en) はオスマン帝国武器の携帯認められていたが、元を正せクレフテス出身であった。そのため、彼らはそれまで権益を失うことを恐れており、独立戦争参加しようとしなかった。 そして彼らは独立した後も地方自治の中で自らが権力を手にいれることを考えており、さらにクレフテスやアルマトリらは戦利品獲得など自らの利益のためには時にオスマン帝国側へ寝返ることもあった。 一方でフィリキ・エテリア過去協力要請していたセルビアミロシュギリシャ協力することでセルビア自治権を失うことを恐れ日和見態度をとっており、アルバニアムスリム至ってオスマン帝国協力していた。しかし北部ギリシャではフィリキ・エテリア接触持っていたブルガリア人らが果敢に戦いコプリフシュティツァのハジ・フリストやスリヴェンのペータル・モラリヤタ、タルノヴォのセムコなどが勇敢に戦いブルガリア商人らもギリシャ側へ支援行ったため、後に多くブルガリア人ロシアルーマニアセルビア亡命、そしてイドラ島、スペッツア島のアルバニア人々海軍部隊編成して協力した。そして1821年9月にはスリオーテスとアルバニア人の間で協定結ばれたが後にスリオーテスが追放されるとこの協力解消された。 1821年12月、この状況打破するためディミトリオス呼びかけエピダウロスで三政府による第1回国民議会 (en) が開催され対立解消図られた。この議会でマヴロコルダトスを大統領選出しギリシャ独立アピール欧米へなされ、さらに翌年1月には主権在民憲法発布された。そして民族的革命としてギリシャ独立宣言革命正当化行い、他の民衆扇動して反乱挑発する者たちの活動と自らの活動区別して3月25日オスマン帝国経済的打撃与えるためにトルコ港湾封鎖宣言した。そして1823年、この当時ヨーロッパ啓蒙思想影響受けた自由主義的な憲法交付され、三政府統合したギリシャ中央暫定政府設立されたが、結局対立解消されることはなかった。 そのため、相互不信加速お互い戦い合う内戦勃発した1823年11月、コロコトロニスは軍事司令官解任されたため、これに憤激ペロポネソス半島一部名望家らを率いて政府樹立したが、反コロコトロニス派らである島嶼部有力者ペロポネソス半島名望家大多数徒党組んで政府樹立してこれに対抗、コロコトロニスに率いられ軍部政治から遠ざけられた。1824年に入ると、第2回国民議会 (en) がアストロスで開催されたが、コロコトロニス派、反コロコトロニス派の争い続き、コロコトロニス派が主導権握りナフプリオン政府樹立した。ただし、この議会それまで地方府が廃止され個人の権利に関する規則がより明確に規定されたようにギリシャ独立のための議論進歩見せた。しかし、イギリスからの借款到着すると、政府内での地位低下したペロポネソス半島名望家らが中心に蜂起した。この争いでは自由主義分子知識人らが支援した島嶼部有力者らが1824年10月ペロポネソス半島有力者破り、コロコトロニスは投獄された。そしてゲオルギオス・クウンドゥリオティス (en) やマヴロコルダトスらが政権掌握、クラニディに政府樹立してこれを鎮圧するために兵を送ったが、「兄弟殺し」を促進した過ぎずギリシャ人らの対立ペロポネソス半島対島嶼部、内陸部という地域間土着対外来者という形となってしまい、その解消絶望的となった。 これら内戦ではギリシャ暫定政府を含むギリシャ軍側の諸派閥の同盟提携関係絶え変化していた。ペロポネソス半島のコジャバシ(土豪)らはオスマン帝国体制下での権力特権保持望み、島に住む船主たちも海戦での貢献からそれなりの政治利権欲していた。しかし元クレフテスらは戦闘大きく貢献したにもかかわらず政治権力与えられることはなかった。そして西欧化された少数知識人たちは武器をもって戦うことはできないにもかかわらず大きな影響力持っていた。 さらにこの内戦では派閥主義吹き荒れ、「軍閥」対「民主主義閥」、あるいは「市民閥」と「貴族閥」による権力闘争化し、さらに「近代化論者」と「伝統的エリート」による溝も存在していた。特に伝統的エリートらは「トルコ人による支配」を象徴する存在であるにもかかわらずオスマン帝国時代秩序をもってギリシャ統治しようと考えており、一方で近代化論者たちはギリシャオスマン帝国支配下で独自の発展遂げていたにもかかわらず民族主義の夢を高らかに掲げて西欧諸国モデルにしてそのシステム輸入しようとしていた。 その後明らかになった民族主義者政策は「伝統的エリート」らの望み含まれていなかったため、「伝統的エリート」らに既得権益手放すまいと決意させたが、これはトルコ人に代わって自らが少数独裁を行うという意味を表していた。そのため、独立戦争英雄一人、フォタコス・フリサンソプロスは地方のコジャバシ(土豪)らは「キリスト教徒トルコ人」に過ぎずそれまでモスク礼拝していたのが教会に変わるだけだと語り実際新たな政治指導者たちには諸勢力まとめ上げる能力欠けていた。

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