躍進するギリシャ軍 -ギリシャ独立戦争第一期-
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「ギリシャ独立戦争」の記事における「躍進するギリシャ軍 -ギリシャ独立戦争第一期-」の解説
オスマン帝国は直ちに反乱の鎮圧を目指し、反乱の阻止ができなかったとしてコンスタンディヌーポリ総主教グリゴリオス5世を処刑、さらに有力なファナリオティスであったコンスタンディノス・ムルジスらを虐殺、そしてファナリオティスらが独占していたモルドバ・ワラキア両公国の公位(ホスポダール)も剥奪、ファナリオティスらは凋落することになった。 ギリシャ軍は果敢に戦い、1822年には海上においてコンスタンティノス・カナリス (en) 率いるギリシャ火船(πυρπολικά or μπουρλότα)がオスマン帝国海軍を撃破すると、6月にはアテネのアクロポリスを占領、7月に至るとコロコトロニス率いる部隊がデルヴェナキアでメフメト・アリ・パシャ率いる部隊を撃破した。そのため、1823年に至るとオスマン帝国軍はアクロコリンソスを放棄、メソロンギでも敗北した。 しかし、これらの有利な状況があったにもかかわらず、反乱軍とオスマン帝国との争いは決着がつかなかった。これは独立戦争開始直後、ペロポネソス半島にアレクサンドロス・イプシランディスの弟でフィリキ・エテリアの後継者であることを主張していたディミトリオス (en) と名望家らが、大陸ギリシャ西部にファナリオティス出身のアレクサンドロス・マヴロコルダトス (en) の西部ルーメリ議会が、大陸ギリシャ東部にファナリオティス出身のテオドロス・ネグリス(Theodoros Negris)の東部ルーメリ・アレオパゴス(東部ルメリ最高会議) (en) がそれぞれ政府を樹立、ギリシャ人の意思が統一されていなかったためであった。さらに悪いことにこの三分裂状態も必ずしも固定されておらず、時には個人、社会集団、地域によって党派が組まれることがあった。 彼らはギリシャ解放という目的でしか一致しておらず、また、ギリシャ解放に参加していた人々もオスマン帝国に多少の違いはありえども依存しているのは間違いなかった。一方で、名望家は徴税権を与えられており、船主らは海運業で、クレフテスらは匪賊としてオスマン地主らを襲い、そしてアルマトリ(国境警備隊) (en) はオスマン帝国に武器の携帯を認められていたが、元を正せばクレフテス出身であった。そのため、彼らはそれまでの権益を失うことを恐れており、独立戦争に参加しようとしなかった。 そして彼らは独立した後も地方自治の中で自らが権力を手にいれることを考えており、さらにクレフテスやアルマトリらは戦利品の獲得など自らの利益のためには時にオスマン帝国側へ寝返ることもあった。 一方でフィリキ・エテリアが過去に協力を要請していたセルビアのミロシュはギリシャに協力することでセルビアの自治権を失うことを恐れ日和見的態度をとっており、アルバニアのムスリムに至ってはオスマン帝国に協力していた。しかし北部ギリシャではフィリキ・エテリアと接触を持っていたブルガリア人らが果敢に戦い、コプリフシュティツァのハジ・フリストやスリヴェンのペータル・モラリヤタ、タルノヴォのセムコなどが勇敢に戦い、ブルガリア商人らもギリシャ側へ支援を行ったため、後に多くのブルガリア人がロシア、ルーマニア、セルビアへ亡命、そしてイドラ島、スペッツア島のアルバニアの人々も海軍部隊を編成して協力した。そして1821年9月にはスリオーテスとアルバニア人の間で協定が結ばれたが後にスリオーテスが追放されるとこの協力は解消された。 1821年12月、この状況を打破するためディミトリオスの呼びかけでエピダウロスで三政府による第1回国民議会 (en) が開催され、対立の解消が図られた。この議会でマヴロコルダトスを大統領に選出してギリシャ独立のアピールが欧米へなされ、さらに翌年1月には主権在民の憲法が発布された。そして民族的革命としてギリシャ独立を宣言、革命の正当化を行い、他の民衆を扇動して反乱を挑発する者たちの活動と自らの活動を区別して、3月25日、オスマン帝国の経済的打撃を与えるためにトルコの港湾の封鎖を宣言した。そして1823年、この当時のヨーロッパ啓蒙思想の影響を受けた自由主義的な憲法が交付され、三政府を統合したギリシャ中央暫定政府が設立されたが、結局、対立が解消されることはなかった。 そのため、相互不信が加速、お互いが戦い合う内戦が勃発した。1823年11月、コロコトロニスは軍事司令官を解任されたため、これに憤激、ペロポネソス半島の一部名望家らを率いて政府を樹立したが、反コロコトロニス派らである島嶼部の有力者もペロポネソス半島の名望家の大多数と徒党を組んで政府を樹立してこれに対抗、コロコトロニスに率いられた軍部は政治から遠ざけられた。1824年に入ると、第2回国民議会 (en) がアストロスで開催されたが、コロコトロニス派、反コロコトロニス派の争いは続き、コロコトロニス派が主導権を握り、ナフプリオンに政府を樹立した。ただし、この議会でそれまでの地方府が廃止され、個人の権利に関する規則がより明確に規定されたように、ギリシャ独立のための議論は進歩を見せた。しかし、イギリスからの借款が到着すると、政府内での地位が低下したペロポネソス半島の名望家らが中心に蜂起した。この争いでは自由主義分子や知識人らが支援した島嶼部の有力者らが1824年10月にペロポネソス半島の有力者を破り、コロコトロニスは投獄された。そしてゲオルギオス・クウンドゥリオティス (en) やマヴロコルダトスらが政権を掌握、クラニディに政府を樹立してこれを鎮圧するために兵を送ったが、「兄弟殺し」を促進したに過ぎず、ギリシャ人らの対立はペロポネソス半島対島嶼部、内陸部という地域間、土着対外来者という形となってしまい、その解消は絶望的となった。 これら内戦ではギリシャ暫定政府を含むギリシャ軍側の諸派閥の同盟、提携関係は絶えず変化していた。ペロポネソス半島のコジャバシ(土豪)らはオスマン帝国体制下での権力、特権の保持を望み、島に住む船主たちも海戦での貢献からそれなりの政治利権を欲していた。しかし元クレフテスらは戦闘に大きく貢献したにもかかわらず政治権力が与えられることはなかった。そして西欧化された少数の知識人たちは武器をもって戦うことはできないにもかかわらず、大きな影響力を持っていた。 さらにこの内戦では派閥主義が吹き荒れ、「軍閥」対「民主主義閥」、あるいは「市民閥」と「貴族閥」による権力闘争と化し、さらに「近代化論者」と「伝統的エリート」による溝も存在していた。特に伝統的エリートらは「トルコ人による支配」を象徴する存在であるにもかかわらず、オスマン帝国時代の秩序をもってギリシャを統治しようと考えており、一方で近代化論者たちはギリシャがオスマン帝国支配下で独自の発展を遂げていたにもかかわらず、民族主義の夢を高らかに掲げて、西欧諸国をモデルにしてそのシステムを輸入しようとしていた。 その後、明らかになった民族主義者の政策は「伝統的エリート」らの望みが含まれていなかったため、「伝統的エリート」らに既得権益を手放すまいと決意させたが、これはトルコ人に代わって自らが少数独裁を行うという意味を表していた。そのため、独立戦争の英雄の一人、フォタコス・フリサンソプロスは地方のコジャバシ(土豪)らは「キリスト教徒のトルコ人」に過ぎず、それまでモスクで礼拝していたのが教会に変わるだけだと語り、実際、新たな政治の指導者たちには諸勢力をまとめ上げる能力に欠けていた。
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