躍進の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 09:22 UTC 版)
本格的に競走馬生産に取り組みだしたのは、高麿の子・早田光一郎である。馬産を志していた光一郎は、大学卒業後に「20世紀最大の種牡馬」とも評されるノーザンダンサーや、その産駒のイギリス三冠馬・ニジンスキーの生国であるカナダに留学。帰国後、父から県庁の退職金2500万円を譲られ、これを元手にカナダで2頭の馬を買い、うち1頭の牝馬・モミジが活躍したことにより、日本円にして約1億円ほどの資金を得た。光一郎はさらに1億円を借り入れて北海道新冠町で新たに「早田牧場新冠支場」を設立し、繁殖牝馬として日本に輸入したモミジらを擁して生産を開始した。さらに光一郎は種馬場・CBスタッドを設立するなどしながら牧場の規模を急拡大させ、早田牧場は中小生産者が集中する北海道日高地方における最大のグループ企業へと成長していった。創設9年目の1986年、モミジの第4仔・ロイヤルシルキーがクイーンステークスを制し、生産馬が重賞初勝利を挙げる。このころから生産馬の質は急激に上昇し、1991年にはレオダーバンが菊花賞を制し、新冠支場創設から14年でGI初制覇を果たした。 1980年代後半、光一郎はかねてより強く望んでいたノーザンダンサー産駒の繁殖牝馬を買い求めはじめる。1989年、イギリス・ニューマーケットで行われたセリ市でパシフィカスを購買。父ノーザンダンサー、母系近親にも一流馬が多数という血統背景ながら、無名の種牡馬シャルードの子を受胎していることが敬遠され、3万1000ギニーの安価であった。しかし日本への輸送後にパシフィカスが産んだビワハヤヒデは1993年の菊花賞に優勝。また3歳王者戦・朝日杯3歳ステークスでは、これも早田が導入した種牡馬ブライアンズタイムとパシフィカスの仔・ナリタブライアンが制し、同年の生産者ランキングにおいて早田牧場は前年の17位から躍進し、日本最大の社台ファームに次ぐ第2位の成績を挙げた。翌1994年にはナリタブライアンが皐月賞、東京優駿、菊花賞のクラシック三冠と有馬記念を制したほか、ビワハヤヒデが天皇賞(春)と宝塚記念、アメリカからの持込による生産馬マーベラスクラウンがジャパンカップを制して生産馬でGI競走7勝を挙げ、ランキングは前年に続き社台ファームに次ぐ2位となる。重賞計14勝は、生産規模で大きく上回る社台に1勝差まで迫るものだった。 早田は優れた相馬眼を持つことに定評があったが、当初、牧場の育成部門は稚拙なものであったという。そこを補ったのが、かつて公営・笠松競馬場で調教師を務め、1991年より育成の責任者として招かれた宮下了であった。宮下は設備から人員までを一新し、新たな環境で育成された馬たちが上記のような活躍を示したことで早田牧場の育成部門への預託希望者が急増。欠点だった育成部門は預託料として牧場に多額の資金をもたらしはじめ、これを元手に新たな馬が続々と買われていった。1995年にはビワハイジが阪神3歳牝馬ステークス、1997年にはマーベラスサンデーが宝塚記念、シルクジャスティスが有馬記念、2000年にはシルクプリマドンナが優駿牝馬(オークス)を制した。1996年、1997年にはランキングで3、4度目の2位を記録している。
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