停滞性論(ていたいせいろん)
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「朝鮮の歴史観」の記事における「停滞性論(ていたいせいろん)」の解説
朝鮮の歴史は、日本のような中世の封建制がなく、古代のまま停滞しており、日本の平安時代のレベルに止まっているとするもの。黒正巌は、朝鮮の地方経済は2000年間進歩の形跡が見られないと主張し、福田徳三は、朝鮮の封建制度の欠如により、20世紀初めの朝鮮の経済を「借金的自足経済」とし、日本や欧州より1000年以上遅れているとした。福田徳三は、朝鮮の封建制度の欠如による植民史観(朝鮮語版)を初めて唱えて、日本の侵略を正当化した論者として現代の韓国の研究者から指弾されている。「おそらく近代的な経済史学の方法論によって書かれた韓国の経済史に関する最初の学術論文」と評価される『韓国の経済組織と経済単位』を1903年~1904年に発表した。そこで資本主義の発展の諸段階を封建制度以前の「自足経済」、封建制度時代の「都府経済」、近代国家時代の「国民経済」に分類化する。そして20世紀初期の朝鮮経済が封建制度以前の「自足経済」の変容的な状態(借金的自足経済)の段階に属しており、日本に例えるなら平安時代、ヨーロッパに例えるならフランク王国に当たると主張した。それによると、20世紀初期の朝鮮経済は、封建制度時代の「都府経済」にも達しておらず、日本やヨーロッパに比較して1000年も遅滞しており、資本主義に進展する不可欠の必須要件である封建制度を経験していないことから、停滞した朝鮮経済がそこから脱するためには、朝鮮自力ではできず、外国の国力をもってはじめて可能だとする。この場合の外国の国力は、ロシア・日本が考えられるが、ロシア経済は、朝鮮経済同様に停滞しており、相互協力による相互発展は難しく、日本の国力によってのみ朝鮮経済の発展が可能だとする。そして論文『韓国の経済組織と経済単位』を以下の言葉で締めくくる。 韓国における経済単位の発展は自発的なものでは出来ず、伝来のものによらざるを得ない。伝来的というのは、別の経済単位の発展した経済組織を持つ文化に同和することになる。…韓国の土地を開拓・耕作して徐々にこれが資本化できるよう、その価値を高める方法を知っている者でなければならない。それでは韓国において多くの経済的設備を施し、数千年間の交通による了解と同情で韓人の使役に慣れ、韓人の土地を事実上、私有して徐々に農業経営を試み、さらにその生産品である米・大豆の最大の顧客である我々日本人は、この使命がつくせる最も適した者ではないだろうか。ましてその封建的教育は世界で最も完美したものの1つであり、土地に対しては最も集中的な農業者であり、人間に対しては韓人に最も欠乏している勇ましい武士精神の代表者である我々日本民族は、…封建的教育とこれに基づいた経済単位の発展を何も実現していない韓国と韓国人に対して、その腐敗衰亡を極めた民族的特性を根底から消滅させることで、自分に同和させる自然的運命と義務を持つ優秀な文化の重大な使命に臨む者ではないか! これこそが日露戦争直前に書かれた論文の核心であり、朝鮮に対する侵略行為を剥き出しにしたものであり、朝鮮は自力で近代化できず、日本に同化して日本の国力を拝借して経済発展を行い、それに対して日本は朝鮮の近代化を助力する使命があるという侵略の野望を露骨に提示しているなどと、現代の韓国の研究者からは指弾されている。 森谷克己は、朝鮮社会の停滞性を克服するために日本の植民地になることで朝鮮の近代化が日本の血脈によって実現でき、アジアと朝鮮が日本の国力により停滞の悪循環から脱却できることを強調した大東亜共栄圏のイデオロギーになったと現代の韓国の研究者から指弾されている。朝鮮に封建体制が存在しないと主張した福田徳三とは異なり、森谷は朝鮮に封建体制が未熟な形で部分的に存在したが、その未熟な封建体制が専制主義・官僚主義に転換するきざしがなく温存しており、専制主義・官僚主義が灌漑農業の基礎である治水・水利・村落共同体の孤立閉鎖性に基づいているため、アジアでは経済的進歩が極めて緩やかで停滞的であり、それは専制主義・官僚主義の基礎である治水・水利・村落共同体の問題に起因している。したがって、これらの経済停滞が日本を除いたアジアを植民地・半植民地に転落させた要因であり、このような植民地・半植民地に停滞したアジアとは違い、封建体制を完成させた日本を宗主国の下に、八紘一宇の精神の基アジアが帝国主義から解放され、300年来の植民地・半植民地の隷属から脱して、停滞から脱出する躍進の時代となったと主張した、と批判されている。 四方博は、戦後の日本社会からは朝鮮植民地支配に消極的な「良心的な教授」であり、朝鮮社会経済史研究で著しい業績を残したと高く評価されているが、現代の韓国の研究者からは、アジアと朝鮮が日本の国力により停滞の悪循環から脱却できるという朝鮮の植民史観(朝鮮語版)の強調やそこから脱却して近代化するために日本の役割を強調することで、日本の侵略を正当化したと指弾されている。論文「朝鮮における近代資本主義の成立過程」『朝鮮社会経済史研究』(1933年)や論文「旧来の朝鮮社会の歴史的性格について」『朝鮮学報』(1・2・3集、1946年、1947年)などで朝鮮社会は歴史的な発展のみられない停滞社会であり、朝鮮が近代化するためには日本の資本が必要だとして資本主義の過程を2つに分類する。1つはヨーロッパにみられる自国の国力によって資本主義が成立するものであり、もう1つは朝鮮のように外国の資本によって資本主義が展開することである。四方によると、「朝鮮の資本主義化は外国の資本と、外国人の技術能力によって純粋に他律的に成立したものであり、その理由は開港当時の朝鮮内には自生的な資本の蓄積も、企業的な精神もなく、資本主義の形成を希望する事情とそれを実現させる条件を皆欠いていたからだ」として、結果的に、朝鮮の近代化のための日本の役割が強調され、日本は朝鮮に近代的な産業、インフラストラクチャー、学校、鉄道などを敷設して朝鮮の近代化を助けたことになり侵略と収奪が隠蔽されたとする。 古田博司は、李氏朝鮮は中国の清や日本の江戸時代とは異なり、イノベーションを嫌い、低レベルの実物経済で500年間も統治しており、1805年に儒学者・鄭東愈(朝鮮語: 정동유)が著した『晝永編(朝鮮語版)』は、「(我が国の拙きところ)針なし、羊なし、車なし」といっており、朝鮮には羊と車と針が無く、針は衣類に穴が開くくらいの粗雑なものでしかなく、針を中国から買っており、木を曲げる技術がないため、李氏朝鮮には樽もなく、液体を遠方に運ぶことすらできず、中国の清でも日本の江戸時代でも陶磁器に赤絵があるが、朝鮮には白磁しかなく、民衆の衣服が白なのも顔料が自給できないからであり、上流階級だけは中国で交易する御用商人から色のある布を買っていたほど停滞した時代だったことを指摘しており、「中世については、この間、朝鮮中世経済史の某氏と話した時に、私が『ちょっと言いにくいんだけど、昔、日本では停滞史観だといって批判されたけど、どうも僕は、長い間やっていた感触として、李朝はインカ帝国に似ていないか』と聞いたんですよ。そうしたら、彼が『僕もそう思う』と言うんですね。…つまり、李朝というのは並みの中世ではないのです。例えば車がない。輪っかがないんです。なぜかというと、曲げ物をつくる技術がない。木を曲げることができないから樽もないわけですよ」「甕は重いでしょう。樽だと楽なんですが、それがないんですよ。だから升に入れて、車がないから、チゲといって全部背中に担ぐ。王朝の宮廷に地方でとれた蜂蜜を届けるんですけれども、そういう時は四角の升です。それを組み合わせて木釘で打ったものに蜂蜜を入れて、背中に担いで山越え谷越えするものですから、着いた時は半分ぐらいないという状況になる。…もっとすごいのは、李朝には商店がないんですよ。御用商人の商店が一カ所に集まっている。でも戸が閉まっている。要するに、宮中の御用をするだけなんですね。一般の民衆はどうかというと、みんな市場で買い物をします。北朝鮮と同じなんです。開いている商店というと、筆屋とか真鍮の食器屋ぐらいですね。両班のうちで使うから筆屋と食器屋はある。…帽子などは地面に広げて売っています。商店というものが全然ないんですね。これは儒教のせいではありません。初めからずっとないのです。北朝鮮も同じで商店がない。闇市しかないわけです」「李朝には顔料がないです。だから、赤絵の壷がないでしょう。薄ぼけた赤いのがあることはありますが、ほぼ全部真っ白。赤絵の壷がないというのが大きな特徴です。柳宗悦が『朝鮮の白は悲哀の色』といったのですが、それは本当は貧しさの悲哀のことです。…顔料がないのです。コバルトをすこし発色できるだけでしょうか。だから衣も民衆は全部白です。…上流はみんな色付きです。中国から取り寄せて上流階級では色の付いたものを着ている。また地方の農村で両班が御用の染料屋に衣を染めさせるという記録はあります。でも下層は麻や木綿地の白ですよ。それを川辺で棒でたたいて洗濯をするものだから、ますます白くなる」と評している。
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