申采浩と朝鮮民族主義歴史学とは? わかりやすく解説

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申采浩と朝鮮民族主義歴史学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 20:02 UTC 版)

朝鮮民族主義歴史学」の記事における「申采浩と朝鮮民族主義歴史学」の解説

論客である申采浩(1880-1936)は、学術的理由ではなく政治的理由で、儒教的歴史学日本植民地学問両方に不満を感じその代わり分析対象として朝鮮人種」(民族)を提唱した。申は、数世紀にわたる中国への歴史的政治的文化的依存性結果として同時代朝鮮人が「奴隷精神」を持っている信じた。彼は、朝鮮民族国家集団的政治活動向けて刺激されるように、アイデンティティ治療法処方した申采浩は、北朝鮮朝鮮両方で、朝鮮民族朝鮮歴史学中心とした最初の歴史家として記されている。朝鮮研究チャールズ K. アームストロング(en:Charles K. Armstrong)は、申が現代朝鮮歴史学の父と考えられていると述べている。申は典型的な儒教教育を受け、1910年日韓併合の後に朝鮮去り中国行った。彼は、高句麗遺跡国境中国側白頭山(長白山)を訪れて触発され1936年亡くなるまで亡命者として朝鮮民族主義論文発表した日本統治時代の朝鮮人に影響与えた新たな知的潮流のうち、中国の歴史家である梁啓超広めた社会ダーウィニズム翻訳が、申采浩崔南善朴殷植のような民族主義ジャーナリスト歴史家の間に影響及ぼしたは、世界は、アングロサクソンドイツ人のように拡張主義影響力のある民族と、弱く重要でない民族分けられる教えた生存競争適者生存(弱肉強食)、自然選択(天択)のテーマは、申自身歴史観だけでなく、中国洋務運動日本明治維新似た朝鮮の「自強運動」にも影響与えた。申はの『中国歴史研究法』(1922)からも影響を受け、申の多く方法はそこから由来する。彼は、儒教伝統御用達を「退廃」し古代の「朝鮮拡張主義王国である高句麗遡る朝鮮の「男らしい伝統から切り離されたと非難し、それを壊す彼自身朝鮮史書いた。申は、儒教歴史学、特に金富軾彼の新羅寄り偏向が、満州領土への朝鮮正当な要求抑制した感じた。申は、満州は、高句麗領土だっただけではなく朝鮮史中心舞台で、「民族」の強さ尺度だと考えた。さらに、申によると、朝鮮人立ち上がって再び満州征服しなくなった原因は、この歴史記述であり、その結果偉大な国が小さな国になり、偉大な民族小さな民族になった」。彼はまた、儒者の「新史体」教科書批判した。それは、日本好意を持たなかったにかかわらず日本の歴史書を翻訳し日本世界観反映したのである。彼はまた、汎アジア主義日本拡張主義口実として批判し東アジア連帯基盤ではなく単なる地理的な単位みなしたその結果、彼は歴史学は「民族精神自立促進すべきである」と主張し彼の新し歴史は、王朝盛衰ではなく、「民族闘争」と、中国日本からの朝鮮独立性両方強調した同様に仲間歴史家朴殷植(1859–1925)と張志暎(ko:장지영)も、歴史的朝鮮想像され勇敢な伝統再現するため、両班の「奴隷的文化思想」を是正しようとした。 日本併合の後、何人かの朝鮮知識人は、新たな権力との積極的な協力公然抵抗よりも、隠退して過去朝鮮の文化広がり賛美する生活を選んだ朝鮮光文会(ko:조선 광문회)の創設者である崔南善朴殷植は、「民族史学家」と呼ばれた新し歴史学派代表者であり、朝鮮王朝衰退嘆き朝鮮独立達成するために民族意識高めようとした。この運動の重要な人物多くは、歴史家呼ばれる正式な歴史学訓練受けておらず、「客観的歴史的な批判厳格なテスト耐える可能性ほとんどない極端な主張をし、歴史朝鮮独立達成するための政治的武器だと見ていた。申采浩は、しばしば、彼の過去朝鮮自律性理想支えるために既存歴史と神話書き換え、それが見つからなかったり反対のものがあった場合記録が「失われた」とか「偽造された」せいにしたが、その手法は彼が金富軾使った非難したのだった。これらの歴史家は、宮廷公認の『三国史記』より民間伝承的な『三国遺事』出典として好み、『三国史記』の編集者儒教事大主義(親中)の目的のために朝鮮史歪曲した非難した。崔の歴史研究は、彼自身公平だ信じていたが、朝鮮外国支配下にあった期間を強調する日本国学反論しようとする願望によって動機づけられていた。民族主義学者の中で、申は、中国低く見る支那という呼称使用含めて日本学問の手法を適応させることを選んだ別の朝鮮民族主義者、安廓(ko:안확)は、日本の歴史学説逆転させ、李氏朝鮮後期派閥主義現代政党政治初期形態だったなどと主張した1914年金教獻(ko:김교헌)は、『神民史』(ko:신단민사)という檀君から李氏朝鮮後期までの朝鮮最初民族主義歴史書書いた日本検閲のため、民族主義的歴史書は反植民地抵抗融合した朝鮮の歴史家は、日本植民地主義歴史学は、日本朝鮮植民地化正当化するために、次の4つ主要な歪曲をしたと非難した朝鮮史主役中国満州日本とした事(他律性論)、朝鮮社会停滞した封建制以前のものとさえ描いた事(停滞性論)、朝鮮政治文化の中の派閥主義記述した事(党派性論)、朝鮮人日本人祖先が共通だ主張した事(日鮮同祖論)である。李基白(ko:이기백)は、日本植民地主義的歴史学を「停滞未開発半島党派主義と非独創性」の前提から生じた要約した。 申の死後彼のやり方従った歴史家は「朝鮮研究運動の新民主義者」と呼ばれる1930年代に、マルクス主義歴史学と、西洋的な科学的研究法を含む、別の学派登場した(震学会)(ko:진단학회)。丙燾(ko:이병도)、李相佰(ko:이상백 (1904년))、金庠基(김상기)、金錫亨(김석형)、を含む震学会学者は、日本の大学か、ソウル京城帝国大学訓練を受け、日本雑誌執筆し客観主義ランケ思想で、日本の植民地歴史学挑戦した一方新民主義者は、鄭寅普(ko:정인보)や安在鴻のような人々含んでいた。鄭寅普は、朝鮮日本の大学社会科学学部ではなく中国古典教育受けていた。彼らは、鄭が「依存心」(他心)と表現した儒教西洋風学問対照的なものとして「独立した自己の精神」(自心)を強調した

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