申采浩と朝鮮民族主義歴史学
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「朝鮮民族主義歴史学」の記事における「申采浩と朝鮮民族主義歴史学」の解説
論客である申采浩(1880-1936)は、学術的理由ではなく政治的理由で、儒教的歴史学と日本の植民地的学問の両方に不満を感じ、その代わりの分析対象として朝鮮「人種」(民族)を提唱した。申は、数世紀にわたる中国への歴史的、政治的、文化的依存性の結果として、同時代の朝鮮人が「奴隷精神」を持っていると信じた。彼は、朝鮮民族と国家が集団的政治活動に向けて刺激されるように、アイデンティティの治療法を処方した。 申采浩は、北朝鮮と朝鮮の両方で、朝鮮民族を朝鮮歴史学の中心とした最初の歴史家として記されている。朝鮮研究者チャールズ K. アームストロング(en:Charles K. Armstrong)は、申が現代朝鮮歴史学の父と考えられていると述べている。申は典型的な儒教教育を受け、1910年の日韓併合の後に朝鮮を去り中国に行った。彼は、高句麗遺跡と国境の中国側の白頭山(長白山)を訪れて触発され、1936年に亡くなるまで亡命者として朝鮮民族主義の論文を発表した。 日本統治時代の朝鮮人に影響を与えた新たな知的潮流のうち、中国の歴史家である梁啓超が広めた社会ダーウィニズムの翻訳が、申采浩、崔南善、朴殷植のような民族主義のジャーナリスト、歴史家の間に影響を及ぼした。梁は、世界は、アングロサクソンやドイツ人のように拡張主義で影響力のある民族と、弱く重要でない民族に分けられると教えた。生存競争、適者生存(弱肉強食)、自然選択(天択)のテーマは、申自身の歴史観だけでなく、中国の洋務運動や日本の明治維新に似た朝鮮の「自強運動」にも影響を与えた。申は梁の『中国歴史研究法』(1922)からも影響を受け、申の多くの方法はそこから由来する。彼は、儒教の伝統の御用達を「退廃」し古代の「朝鮮」拡張主義の王国である高句麗に遡る朝鮮の「男らしい」伝統から切り離されたと非難し、それを壊す彼自身の朝鮮史を書いた。申は、儒教歴史学、特に金富軾と彼の新羅寄りの偏向が、満州の領土への朝鮮の正当な要求を抑制したと感じた。申は、満州は、高句麗の領土だっただけではなく、朝鮮史の中心舞台で、「民族」の強さの尺度だと考えた。さらに、申によると、朝鮮人が立ち上がって再び満州を征服しなくなった原因は、この歴史記述であり、その結果「偉大な国が小さな国になり、偉大な民族が小さな民族になった」。彼はまた、儒者の「新史体」教科書も批判した。それは、日本に好意を持たなかったにもかかわらず、日本の歴史書を翻訳し、日本の世界観を反映したものである。彼はまた、汎アジア主義を日本の拡張主義の口実として批判し、東アジアを連帯の基盤ではなく単なる地理的な単位とみなした。その結果、彼は歴史学は「民族の精神と自立を促進すべきである」と主張し、彼の新しい歴史は、王朝の盛衰ではなく、「民族の闘争」と、中国と日本からの朝鮮の独立性の両方を強調した。同様に仲間の歴史家朴殷植(1859–1925)と張志暎(ko:장지영)も、歴史的朝鮮の想像された勇敢な伝統を再現するため、両班の「奴隷的文化思想」を是正しようとした。 日本の併合の後、何人かの朝鮮の知識人は、新たな権力との積極的な協力や公然の抵抗よりも、隠退して過去の朝鮮の文化の広がりを賛美する生活を選んだ。朝鮮光文会(ko:조선 광문회)の創設者である崔南善と朴殷植は、「民族史学家」と呼ばれた新しい歴史学派の代表者であり、朝鮮王朝の衰退を嘆き、朝鮮の独立を達成するために民族意識を高めようとした。この運動の重要な人物の多くは、歴史家と呼ばれるが正式な歴史学の訓練を受けておらず、「客観的歴史的な批判の厳格なテストに耐える可能性がほとんどない」極端な主張をし、歴史を朝鮮の独立を達成するための政治的武器だと見ていた。申采浩は、しばしば、彼の過去の朝鮮の自律性の理想を支えるために既存の歴史と神話を書き換え、それが見つからなかったり反対のものがあった場合は記録が「失われた」とか「偽造された」せいにしたが、その手法は彼が金富軾が使ったと非難したものだった。これらの歴史家は、宮廷公認の『三国史記』より民間伝承的な『三国遺事』を出典として好み、『三国史記』の編集者を儒教と事大主義(親中)の目的のために朝鮮史を歪曲したと非難した。崔の歴史研究は、彼自身は公平だと信じていたが、朝鮮が外国の支配下にあった期間を強調する日本の国学に反論しようとする願望によって動機づけられていた。民族主義学者の中で、申は、中国を低く見る支那という呼称の使用を含めて、日本の学問の手法を適応させることを選んだ。別の朝鮮民族主義者、安廓(ko:안확)は、日本の歴史学説を逆転させ、李氏朝鮮後期の派閥主義は現代政党政治の初期形態だったなどと主張した。1914年、金教獻(ko:김교헌)は、『神檀民史』(ko:신단민사)という檀君から李氏朝鮮後期までの朝鮮最初の民族主義の歴史書を書いた。日本の検閲のため、民族主義的歴史書は反植民地の抵抗と融合した。 朝鮮の歴史家は、日本の植民地主義歴史学は、日本の朝鮮の植民地化を正当化するために、次の4つの主要な歪曲をしたと非難した。朝鮮史の主役を中国、満州、日本とした事(他律性論)、朝鮮社会を停滞した封建制以前のものとさえ描いた事(停滞性論)、朝鮮の政治文化の中の派閥主義を記述した事(党派性論)、朝鮮人と日本人の祖先が共通だと主張した事(日鮮同祖論)である。李基白(ko:이기백)は、日本の植民地主義的歴史学を「停滞、未開発、半島党派主義と非独創性」の前提から生じたと要約した。 申の死後に彼のやり方に従った歴史家は「朝鮮研究」運動の「新民族主義者」と呼ばれる。1930年代に、マルクス主義歴史学と、西洋的な科学的研究法を含む、別の学派が登場した(震檀学会)(ko:진단학회)。李丙燾(ko:이병도)、李相佰(ko:이상백 (1904년))、金庠基(김상기)、金錫亨(김석형)、を含む震檀学会の学者は、日本の大学か、ソウルの京城帝国大学で訓練を受け、日本の雑誌に執筆し、客観主義のランケ的思想で、日本の植民地歴史学に挑戦した。一方、新民族主義者は、鄭寅普(ko:정인보)や安在鴻のような人々を含んでいた。鄭寅普は、朝鮮や日本の大学の社会科学学部ではなく、中国古典教育を受けていた。彼らは、鄭が「依存心」(他心)と表現した新儒教や西洋風の学問と対照的なものとして「独立した自己の精神」(自心)を強調した。
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