日本の植民地歴史学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 20:02 UTC 版)
「朝鮮民族主義歴史学」の記事における「日本の植民地歴史学」の解説
日本の主流の歴史学は、1887年にドイツ人ルートヴィヒ・リースにより導入された西洋の歴史学と、江戸時代(1603-1868)から日本で確立していた中国の考証学の伝統との融合から生まれた。日本の東洋史に関する歴史学は、白鳥庫吉(1865-1942)率いる分野だった。白鳥庫吉は、西洋のオリエンタリストの中国と朝鮮の否定的な描写を引き継ぎながら、日本をアジアや西洋と分離して西洋と対等に立つものと分類した。朝鮮の歴史家が日本の「植民地歴史学」と呼ぶものが、日鮮同祖論を主張した東京帝国大学の1890年の日本史『国史眼』に見られる。『国史眼』は、古事記や日本書紀に基づき、スサノオや神武天皇の兄弟や神功皇后という伝説的な人物が新羅を支配したと主張した。このような朝鮮の日本への歴史的従属の見解が日本の歴史学界で広く受け入れられ、日本の国家の歴史に不可欠となり、大鳥圭介の『朝鮮紀聞』(1885)、林泰輔の『朝鮮史』(1892)など明治時代(1868-1912)のほかの本でも同様の主張が見られる。朝鮮に関する日本の歴史学のもう一つのテーマは朝鮮の後進性であり、1902年に経済学者福田徳三が最初に議論した。福田徳三は、朝鮮は日本の平安時代(794-1185)と同等だと言った。 1876年の日朝修好条規から、日本は朝鮮の問題に関わりを増した。日露戦争後1905年に満州を日本の植民地に開き、日本は一体化した「満鮮史」の概念を促進し始めた。「満鮮史」の学説は、稲葉岩吉が1920年代から1930年代に発展させ、朝鮮は政治経済でさまざまな勢力に他律的に服従し「独立性と独創性」を欠いていたとされた。1915年に朝鮮総督府中枢院を通じて朝鮮歴史学への帝国の公式の関与が始まった[20]。日本の朝鮮総督斎藤実は、1919年の三・一運動の以後の「文化抑制」政策の一部として、申采浩、崔南善、李光洙などの朝鮮の民族史学家を対象とした。朝鮮総督府学務局は、35巻の『朝鮮人』と呼ばれる作品を発表し、朝鮮人は日本に同化されるべきであると主張した。日本の知識人はこの目的のために朝鮮人の名前を日本風に変える(創氏改名)よう提唱した。1922年に、総督は、委員会を設置し『朝鮮史』35巻をまとめた。『朝鮮史』は主に中国、日本、朝鮮の史料からの引用で構成されており、日本統治時代の朝鮮で歴史研究の一次資料として使用された。日本の行政官は朝鮮半島の歴史的価値がある遺物を調査し(古蹟調査事業)、また、朝鮮文化の民間信仰の檀君の姿を反証しようとした。日本の歴史学における朝鮮人の一般的描写は、事大主義、あるいは外国勢力、特に中国に対して非常に卑屈であることだった。
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