日本の植民地と東アジア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 07:38 UTC 版)
「近代から現代にかけての世界の一体化」の記事における「日本の植民地と東アジア」の解説
詳細は「三・一独立運動」、「五四運動」、「新青年」、「護法運動」、「中国国民党」、「中国共産党」、「北伐」、および「上海クーデター」を参照 ヴェルサイユ条約によって、アジア諸民族の独立が達成されない事が明らかになると、日本の支配下に置かれていた地域でも独立を求める機運が高まった。一つが、朝鮮半島で起こった三・一独立運動、もう一つが中国で起こった五四運動である。 1919年3月1日、タプコル公園から始まったこの運動は、デモ回数で1542回、延べ参加人数は205万人に上った。この運動に対して、当時の朝鮮総督府は、徹底的な弾圧を行い、5月には沈静化した。その後、光復まで朝鮮半島では大規模なデモ行動が起こることはなかった。 一方、中国の運動は、大戦中の1915年、日本政府が中華民国政府にいわゆる「対華21ヶ条要求」を突きつけたことにより、中国国内で反日感情が高まっていた。そのような環境の中で袁世凱は日本の要求を受諾した。そして、袁世凱は弱体化している中国を再建するには専制的な指導者が必要であるとして1916年皇帝となったが、蔡鍔らが護国戦争を起こし、袁世凱は国民の反発を受けて失脚し、中国は軍閥が割拠する時代となった。 ヴェルサイユ条約で日本がドイツの対中権益を承継することが判明すると、北京大学の学生を中心に講和条約の不調印を要求し、5月4日天安門広場で決起した。最終的には、民国政府はヴェルサイユ条約の批准を拒否した。 中国では、ナショナリズムを高揚する思想家、知識人が現れ民衆にも思想を広めていった。陳独秀は1915年雑誌『新青年』を刊行し、その中で胡適は白話運動を展開し、平易な中国語で思想を伝え、李大釗は社会主義思想を伝えた。魯迅は『阿Q正伝』で現状の中国人の蒙昧さを伝えたが、雑誌『新青年』は社会主義を批判する胡適と、受容する陳独秀、李大釗の対立により、1921年に刊行終了となった。 ナショナリズムの高揚を革命運動に取り込むことを考えた孫文は、1919年中華革命党を改組し、中国国民党を結成し、護法運動を展開、広東軍政府非常大総統に就任した。一方、1921年になるとコミンテルンの指導の下、陳独秀、李大釗、毛沢東らは中国共産党を結党した(中共一大会議)。1922年6月、孫文は広東軍の領袖陳炯明と対立し、広東軍政府を追われた。後に陳炯明の勢力を駆逐すると、孫文は上海でソ連のアドリフ・ヨッフェと会談し、「連ソ容共」をスローガンとした孫文・ヨッフェ宣言が発表され、第一次国共合作が進められた。 第一次国共合作のなかで、孫文が1925年3月12日肝癌で死亡すると、孫文の遺志を継いだ蔣介石は1926年、北伐を開始した。1927年上海クーデターで北伐は一旦中断し、国共分裂、国民党の内部分裂、日本による山東出兵の干渉が発生したが、最終的には、1928年国民革命軍の北京入城ならびに張学良の易幟により北伐は完了した。張学良の父である奉天派の首魁、張作霖は1928年6月4日関東軍の手によって暗殺された(張作霖爆殺事件)。そして、1928年には孫文が提示した革命三段階の内の訓政に入ったことを宣言した が、蔣介石が権力を掌握する為には、中原大戦に至るまでの国民党内部の抗争を繰り広げなくてはならなかった。 一方、中国国民党から駆逐された中国共産党は、李立三のように都市部での抵抗を試みるものもいたが、毛沢東は中国国民党の勢力が及ばない山間部や農村に解放区を築き抵抗していった。その一例が江西省と湖南省の省境に位置する井崗山である。
※この「日本の植民地と東アジア」の解説は、「近代から現代にかけての世界の一体化」の解説の一部です。
「日本の植民地と東アジア」を含む「近代から現代にかけての世界の一体化」の記事については、「近代から現代にかけての世界の一体化」の概要を参照ください。
- 日本の植民地と東アジアのページへのリンク