張作霖爆殺事件とは? わかりやすく解説

ちょうさくりんばくさつ‐じけん〔チヤウサクリンバクサツ‐〕【張作霖爆殺事件】


張作霖爆殺事件

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張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)は、1928年(民国17年/昭和3年)6月4日、中華民国奉天省奉天市(現・中華人民共和国遼寧省瀋陽市)近郊で、日本の関東軍奉天軍閥の指導者張作霖を暗殺した事件。 巨大な勢力を持ち、満鉄をはじめとする日本の勢力拡大に邪魔になりつつあった張作霖を排除するとともに、関東軍はこの事件を国民革命軍の仕業に見せかけ、一説にはそれを口実に南満洲に進行し占領しようとしていた。この事実は戦後まで秘匿されていた[1]。戦後、東京裁判で元陸軍田中隆吉および社会党左派で衆議院議員だった森島守人による証言が出るまでは犯人は不明とされていた[2]




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張作霖爆殺事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 03:46 UTC 版)

南満洲鉄道」の記事における「張作霖爆殺事件」の解説

「張作霖爆殺事件」も参照 1928年昭和3年6月4日張作霖乗せた専用列車奉天郊外クロス地点京奉線満鉄線の立体交叉点)付近爆破され北京から奉天帰るため乗車していた張作霖重傷負い2日後死亡した(張作霖爆殺事件)。張作霖爆殺企てたのは、関東軍の高級参謀河本大作大佐実行したのは独立守備隊東宮鉄男であった河本らは張作霖殺害して父親との不和噂されていた張学良擁立しようとしており、彼は土肥原賢二などからは「親日権化」とみられていた。東宮中国人苦力2人殺害し爆破北伐軍犯行みせかけようとしたのである。 この事件の処理について、田中義一首相元老西園寺公望らの意向入れて真相究明し陸軍軍人関与確認されたら厳しく処断するつもりであり、昭和天皇にも当初そのように上奏した。白川義則陸相田中意を受け事件の真相明らかにして処分しよう動いた。しかし、上原勇作閑院宮載仁親王の両元帥はじめ陸軍長老や他の陸軍首脳田中白川方針反対であり、白川結局張作霖列車爆破され線路守備責任のみを問う行政処分とどめることを陸軍総意とすることとした。田中内閣の他の閣僚も、田中方針反対したので、田中もその圧力抗しきれず、最終的には、行政処分のみにとどめる方針転じた昭和天皇は、この田中変化に強い不信をいだき、牧野伸顕鈴木貫太郎にも諮問したうえで田中首相問責した。 満洲張作霖中国本土蔣介石という両反共政権による中国分割前提に、その双方交渉しつつ日本権益擁護するというのが、田中の「等距離外交」(服部龍二)ではあった。しかし、この外交路線爆殺事件によって崩壊した張作霖の子息、張学良父親の死事実隠し通し冷静に対処して時間稼ぎながら体制立て直し奉天軍閥率いる父の後継者就任するという離れ業やってのけた1928年12月張学良国民政府青天白日旗掲げて易幟行った。さらに張学良は、張作霖時代からの幕僚親日派巨頭だった楊宇霆常蔭槐1929年1月暗殺し親日派一掃した田中外交は、こうして完全に行き詰まってしまった。爆殺事件の後山本条太郎臨時経済調査委員会発足させ、これを既存満鉄調査部並存させつつも、より実際立案にかかわる調査活動委託せしめた1929年6月20日満鉄には再び理事会設置されトップ役職名総裁戻された。1929年7月田中首相辞任した山本田中という後ろ盾失ったこともあり、8月14日満鉄総裁の座をおりた。新し総裁には仙石貢就任した一方、張作霖爆殺事件から4か月後、1928年10月には陸軍大学校兵学教官であった石原莞爾中佐関東軍参謀着任した1929年5月には板垣征四郎河本大作後任の高級参謀として着任した7月石原らは「対ソ作戦計画研究」と題する参謀の「北満旅行」を実施し、約2週間長春ハルビンからハイラル満洲里洮南各地まわった。この旅行のなかで、石原は「戦争史大観」の講義おこない板垣はこれに強く共鳴したといわれるまた、石原旅行中に「国運転回根本国策たる満蒙問題解決案」を一行示したが、これは日本国内不安除去のためにも、多数中国民衆のためにも満蒙問題積極解決が必要で、これは日本満蒙領有によって実現されるが、そのためには対米戦争も賭さなければならないというものであった。さらに石原は、満洲里において「関東軍満蒙領有計画」を一同に示したが、それによれば長春もしくはハルビン総督府を置き、大・中将を総督とする軍政を布いて、「日本人大規模企業智能用う事業に、朝鮮人水田開拓に、支那人は小商業労働に、各々能力発揮し共存共栄の実を挙ぐべし」というものであった石原自身構想満鉄部内持ち込んだのは、1930年3月満鉄調査部での講話レジュメ満洲領有計画構想そのものであったことからも知られる石原関東軍調査機能が不十分であったところから、満鉄調査部調査協力要請していたのである

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張作霖爆殺事件

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張景恵」の記事における「張作霖爆殺事件」の解説

迷走する北京政府尻目に張作霖着実に奉天派』を組織してゆき、その中で張景恵瞬く間出世果たし1918年には奉天軍副総司令就任している。この後奉天派重鎮として張作霖行動を共にし、1926年北京政府中華民国陸軍総長就任した。 だが1928年国民党蔣介石北伐によって張作霖失脚すると、張景恵同時に失脚する巻き返しを図るために奉天戻ろうとした張作霖乗った列車爆破され(張作霖爆殺事件)、随伴していた張景恵重傷を負う。 張作霖の後を継いだ張学良は、その基本方針が「国内他勢力合同してでも諸外国対抗できる国力を持つ」事だったため、1929年1月蔣介石南京国民政府帰順した張景恵もこれに従って南京国民政府軍事参議院院長務める。

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張作霖爆殺事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 22:17 UTC 版)

南満州鉄道」の記事における「張作霖爆殺事件」の解説

「張作霖爆殺事件」も参照 1928年昭和3年6月4日張作霖乗せた専用列車奉天郊外クロス地点京奉線満鉄線の立体交叉点)付近爆破され北京から奉天帰るため乗車していた張作霖重傷負い2日後死亡した(張作霖爆殺事件)。張作霖爆殺企てたのは、関東軍の高級参謀河本大作大佐実行したのは独立守備隊東宮鉄男であった河本らは張作霖殺害して父親との不和噂されていた張学良擁立しようとしており、彼は土肥原賢二などからは「親日権化」とみられていた。東宮中国人苦力2人殺害し爆破北伐軍犯行みせかけようとしたのである。 この事件の処理について、田中義一首相元老西園寺公望らの意向入れて真相究明し陸軍軍人関与確認されたら厳しく処断するつもりであり、昭和天皇にも当初そのように上奏した。白川義則陸相田中意を受け事件の真相明らかにして処分しよう動いた。しかし、上原勇作閑院宮載仁親王の両元帥はじめ陸軍長老や他の陸軍首脳田中白川方針反対であり、白川結局張作霖列車爆破され線路守備責任のみを問う行政処分とどめることを陸軍総意とすることとした。田中内閣の他の閣僚も、田中方針反対したので、田中もその圧力抗しきれず、最終的には、行政処分のみにとどめる方針転じた昭和天皇は、この田中変化に強い不信をいだき、牧野伸顕鈴木貫太郎にも諮問したうえで田中首相問責した。 満洲張作霖中国本土蔣介石という両反共政権による中国分割前提に、その双方交渉しつつ日本権益擁護するというのが、田中の「等距離外交」(服部龍二)ではあった。しかし、この外交路線爆殺事件によって崩壊した張作霖の子息、張学良父親の死事実隠し通し冷静に対処して時間稼ぎながら体制立て直し奉天軍閥率いる父の後継者就任するという離れ業やってのけた1928年12月張学良国民政府青天白日旗掲げて易幟行った。さらに張学良は、張作霖時代からの幕僚親日派巨頭だった楊宇霆常蔭槐1929年1月暗殺し親日派一掃した田中外交は、こうして完全に行き詰まってしまった。爆殺事件の後山本条太郎臨時経済調査委員会発足させ、これを既存満鉄調査部並存させつつも、より実際立案にかかわる調査活動委託せしめた1929年6月20日満鉄には再び理事会設置されトップ役職名総裁戻された。1929年7月田中首相辞任した山本田中という後ろ盾失ったこともあり、8月14日満鉄総裁の座をおりた。新し総裁には仙石貢就任した一方、張作霖爆殺事件から4か月後、1928年10月には陸軍大学校兵学教官であった石原莞爾中佐関東軍参謀着任した1929年5月には板垣征四郎河本大作後任の高級参謀として着任した7月石原らは「対ソ作戦計画研究」と題する参謀の「北満旅行」を実施し、約2週間長春ハルビンからハイラル満洲里洮南各地まわった。この旅行のなかで、石原は「戦争史大観」の講義おこない板垣はこれに強く共鳴したといわれるまた、石原旅行中に「国運転回根本国策たる満蒙問題解決案」を一行示したが、これは日本国内不安除去のためにも、多数中国民衆のためにも満蒙問題積極解決が必要で、これは日本満蒙領有によって実現されるが、そのためには対米戦争も賭さなければならないというものであった。さらに石原は、満洲里において「関東軍満蒙領有計画」を一同に示したが、それによれば長春もしくはハルビン総督府を置き、大・中将を総督とする軍政を布いて、「日本人大規模企業智能用う事業に、朝鮮人水田開拓に、支那人は小商業労働に、各々能力発揮し共存共栄の実を挙ぐべし」というものであった石原自身構想満鉄部内持ち込んだのは、1930年3月満鉄調査部での講話レジュメ満洲領有計画構想そのものであったことからも知られる石原関東軍調査機能が不十分であったところから、満鉄調査部調査協力要請していたのである

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張作霖爆殺事件

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田中義一」の記事における「張作霖爆殺事件」の解説

同年起きた張作霖爆殺事件に際して国際的な信用を保つために容疑者軍法会議によって厳罰処すべきと主張しその旨天皇にも奏上したが、陸軍の強い反対に遭ったため果たせなかった。 このことを野党批判され立憲民政党中野正剛尼港事件の際に田中が「断じて臣節全うす」と称して陸軍大臣の職を辞したことは国務大臣として責を負うた適例であったが、済南事件責任福田司令官帰し満洲事件村岡司令官帰したことは厚顔無恥であるとした。この批判に対して田中は「この如き事に責任を負うたら総理大臣は何居って足らぬ」と豪語したところ、中野は「政略出兵責任軍部転嫁するような総理大臣がいたら日本帝国国軍は何百万居って足らないこととなる」とさらに糾弾した軍法会議によって容疑者厳罰処すべきと主張していたにもかかわらず1929年昭和4年6月27日田中は、関東軍は張作霖爆殺事件とは無関係であった昭和天皇(以下「天皇」)に奏上したところ、天皇は「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」と田中直接詰問したこのあと奥に入った天皇鈴木貫太郎侍従長に対して、「田中総理言ふことはちつとも判らぬ。再びきくことは自分厭だ」との旨を述べたが、これを鈴木田中伝えてしまったところ、田中は涙を流して恐懼し、7月2日内閣総辞職した。 ウィキソース田中義一内閣総理大臣辞表原文あります

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張作霖爆殺事件

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東宮鉄男」の記事における「張作霖爆殺事件」の解説

1928年昭和3年6月4日の張作霖爆殺事件に於いて実行者として爆破スイッチ押したという。

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