ちょうさくりんばくさつ‐じけん〔チヤウサクリンバクサツ‐〕【張作霖爆殺事件】
張作霖爆殺事件
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張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)は、1928年(民国17年/昭和3年)6月4日、中華民国奉天省奉天市(現・中華人民共和国遼寧省瀋陽市)近郊で、日本の関東軍が奉天軍閥の指導者張作霖を暗殺した事件。 巨大な勢力を持ち、満鉄をはじめとする日本の勢力拡大に邪魔になりつつあった張作霖を排除するとともに、関東軍はこの事件を国民革命軍の仕業に見せかけ、一説にはそれを口実に南満洲に進行し占領しようとしていた。この事実は戦後まで秘匿されていた[1]。戦後、東京裁判で元陸軍田中隆吉および社会党左派で衆議院議員だった森島守人による証言が出るまでは犯人は不明とされていた[2]。
- 1 張作霖爆殺事件とは
- 2 張作霖爆殺事件の概要
張作霖爆殺事件
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「張作霖爆殺事件」も参照 1928年(昭和3年)6月4日、張作霖を乗せた専用列車が奉天郊外のクロス地点(京奉線と満鉄線の立体交叉点)付近で爆破され、北京から奉天に帰るため乗車していた張作霖が重傷を負い、2日後に死亡した(張作霖爆殺事件)。張作霖の爆殺を企てたのは、関東軍の高級参謀河本大作大佐、実行したのは独立守備隊の東宮鉄男らであった。河本らは張作霖を殺害して、父親との不和が噂されていた張学良を擁立しようとしており、彼は土肥原賢二などからは「親日の権化」とみられていた。東宮は中国人の苦力2人を殺害し、爆破を北伐軍の犯行とみせかけようとしたのである。 この事件の処理について、田中義一首相は元老の西園寺公望らの意向を入れて真相を究明し、陸軍軍人の関与が確認されたら厳しく処断するつもりであり、昭和天皇にも当初そのように上奏した。白川義則陸相も田中の意を受けて事件の真相を明らかにして処分しようと動いた。しかし、上原勇作や閑院宮載仁親王の両元帥はじめ陸軍の長老や他の陸軍首脳は田中・白川の方針に反対であり、白川は結局、張作霖の列車が爆破された線路の守備の責任のみを問う行政処分にとどめることを陸軍の総意とすることとした。田中内閣の他の閣僚も、田中の方針に反対したので、田中もその圧力に抗しきれず、最終的には、行政処分のみにとどめる方針に転じた。昭和天皇は、この田中の変化に強い不信をいだき、牧野伸顕や鈴木貫太郎にも諮問したうえで田中首相を問責した。 満洲の張作霖と中国本土の蔣介石という両反共政権による中国分割を前提に、その双方と交渉しつつ日本の権益を擁護するというのが、田中の「等距離外交」(服部龍二)ではあった。しかし、この外交路線は爆殺事件によって崩壊した。張作霖の子息、張学良は父親の死の事実を隠し通し、冷静に対処して時間を稼ぎながら体制を立て直し、奉天軍閥を率いる父の後継者に就任するという離れ業をやってのけた。1928年12月、張学良は国民政府の青天白日旗を掲げて易幟を行った。さらに張学良は、張作霖時代からの幕僚で親日派の巨頭だった楊宇霆と常蔭槐を1929年1月に暗殺して親日派を一掃した。田中外交は、こうして完全に行き詰まってしまった。爆殺事件の後、山本条太郎は臨時経済調査委員会を発足させ、これを既存の満鉄調査部と並存させつつも、より実際の立案にかかわる調査活動を委託せしめた。1929年6月20日、満鉄には再び理事会が設置され、トップの役職名は総裁に戻された。1929年7月、田中は首相を辞任した。山本は田中という後ろ盾を失ったこともあり、8月14日、満鉄総裁の座をおりた。新しい総裁には仙石貢が就任した。 一方、張作霖爆殺事件から4か月後、1928年10月には陸軍大学校兵学教官であった石原莞爾中佐が関東軍参謀に着任した。1929年5月には板垣征四郎が河本大作後任の高級参謀として着任した。7月、石原らは「対ソ作戦計画の研究」と題する参謀の「北満旅行」を実施し、約2週間で長春、ハルビンからハイラル、満洲里、洮南の各地をまわった。この旅行のなかで、石原は「戦争史大観」の講義をおこない、板垣はこれに強く共鳴したといわれる。また、石原は旅行中に「国運転回の根本国策たる満蒙問題解決案」を一行に示したが、これは日本国内不安除去のためにも、多数の中国民衆のためにも満蒙問題の積極的解決が必要で、これは日本の満蒙領有によって実現されるが、そのためには対米戦争も賭さなければならないというものであった。さらに石原は、満洲里において「関東軍満蒙領有計画」を一同に示したが、それによれば、長春もしくはハルビンに総督府を置き、大・中将を総督とする軍政を布いて、「日本人は大規模の企業及智能を用うる事業に、朝鮮人は水田の開拓に、支那人は小商業労働に、各々其能力を発揮し共存共栄の実を挙ぐべし」というものであった。石原が自身の構想を満鉄部内に持ち込んだのは、1930年3月の満鉄調査部での講話のレジュメが満洲領有計画構想そのものであったことからも知られる。石原は関東軍の調査機能が不十分であったところから、満鉄調査部に調査協力を要請していたのである。
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張作霖爆殺事件
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迷走する北京政府を尻目に張作霖は着実に『奉天派』を組織してゆき、その中で張景恵は瞬く間に出世を果たし、1918年には奉天軍副総司令に就任している。この後も奉天派の重鎮として張作霖と行動を共にし、1926年に北京政府の中華民国陸軍総長に就任した。 だが1928年に国民党の蔣介石の北伐によって張作霖が失脚すると、張景恵も同時に失脚する。巻き返しを図るために奉天に戻ろうとした張作霖の乗った列車は爆破され(張作霖爆殺事件)、随伴していた張景恵も重傷を負う。 張作霖の後を継いだ張学良は、その基本方針が「国内他勢力と合同してでも諸外国に対抗できる国力を持つ」事だったため、1929年1月に蔣介石の南京国民政府に帰順した。張景恵もこれに従って南京国民政府で軍事参議院院長を務める。
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張作霖爆殺事件
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「張作霖爆殺事件」も参照 1928年(昭和3年)6月4日、張作霖を乗せた専用列車が奉天郊外のクロス地点(京奉線と満鉄線の立体交叉点)付近で爆破され、北京から奉天に帰るため乗車していた張作霖が重傷を負い、2日後に死亡した(張作霖爆殺事件)。張作霖の爆殺を企てたのは、関東軍の高級参謀河本大作大佐、実行したのは独立守備隊の東宮鉄男らであった。河本らは張作霖を殺害して、父親との不和が噂されていた張学良を擁立しようとしており、彼は土肥原賢二などからは「親日の権化」とみられていた。東宮は中国人の苦力2人を殺害し、爆破を北伐軍の犯行とみせかけようとしたのである。 この事件の処理について、田中義一首相は元老の西園寺公望らの意向を入れて真相を究明し、陸軍軍人の関与が確認されたら厳しく処断するつもりであり、昭和天皇にも当初そのように上奏した。白川義則陸相も田中の意を受けて事件の真相を明らかにして処分しようと動いた。しかし、上原勇作や閑院宮載仁親王の両元帥はじめ陸軍の長老や他の陸軍首脳は田中・白川の方針に反対であり、白川は結局、張作霖の列車が爆破された線路の守備の責任のみを問う行政処分にとどめることを陸軍の総意とすることとした。田中内閣の他の閣僚も、田中の方針に反対したので、田中もその圧力に抗しきれず、最終的には、行政処分のみにとどめる方針に転じた。昭和天皇は、この田中の変化に強い不信をいだき、牧野伸顕や鈴木貫太郎にも諮問したうえで田中首相を問責した。 満洲の張作霖と中国本土の蔣介石という両反共政権による中国分割を前提に、その双方と交渉しつつ日本の権益を擁護するというのが、田中の「等距離外交」(服部龍二)ではあった。しかし、この外交路線は爆殺事件によって崩壊した。張作霖の子息、張学良は父親の死の事実を隠し通し、冷静に対処して時間を稼ぎながら体制を立て直し、奉天軍閥を率いる父の後継者に就任するという離れ業をやってのけた。1928年12月、張学良は国民政府の青天白日旗を掲げて易幟を行った。さらに張学良は、張作霖時代からの幕僚で親日派の巨頭だった楊宇霆と常蔭槐を1929年1月に暗殺して親日派を一掃した。田中外交は、こうして完全に行き詰まってしまった。爆殺事件の後、山本条太郎は臨時経済調査委員会を発足させ、これを既存の満鉄調査部と並存させつつも、より実際の立案にかかわる調査活動を委託せしめた。1929年6月20日、満鉄には再び理事会が設置され、トップの役職名は総裁に戻された。1929年7月、田中は首相を辞任した。山本は田中という後ろ盾を失ったこともあり、8月14日、満鉄総裁の座をおりた。新しい総裁には仙石貢が就任した。 一方、張作霖爆殺事件から4か月後、1928年10月には陸軍大学校兵学教官であった石原莞爾中佐が関東軍参謀に着任した。1929年5月には板垣征四郎が河本大作後任の高級参謀として着任した。7月、石原らは「対ソ作戦計画の研究」と題する参謀の「北満旅行」を実施し、約2週間で長春、ハルビンからハイラル、満洲里、洮南の各地をまわった。この旅行のなかで、石原は「戦争史大観」の講義をおこない、板垣はこれに強く共鳴したといわれる。また、石原は旅行中に「国運転回の根本国策たる満蒙問題解決案」を一行に示したが、これは日本国内不安除去のためにも、多数の中国民衆のためにも満蒙問題の積極的解決が必要で、これは日本の満蒙領有によって実現されるが、そのためには対米戦争も賭さなければならないというものであった。さらに石原は、満洲里において「関東軍満蒙領有計画」を一同に示したが、それによれば、長春もしくはハルビンに総督府を置き、大・中将を総督とする軍政を布いて、「日本人は大規模の企業及智能を用うる事業に、朝鮮人は水田の開拓に、支那人は小商業労働に、各々其能力を発揮し共存共栄の実を挙ぐべし」というものであった。石原が自身の構想を満鉄部内に持ち込んだのは、1930年3月の満鉄調査部での講話のレジュメが満洲領有計画構想そのものであったことからも知られる。石原は関東軍の調査機能が不十分であったところから、満鉄調査部に調査協力を要請していたのである。
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張作霖爆殺事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:10 UTC 版)
同年に起きた張作霖爆殺事件に際して、国際的な信用を保つために容疑者を軍法会議によって厳罰に処すべきと主張し、その旨を天皇にも奏上したが、陸軍の強い反対に遭ったため果たせなかった。 このことを野党に批判され、立憲民政党の中野正剛は尼港事件の際に田中が「断じて臣節を全うす」と称して陸軍大臣の職を辞したことは国務大臣として責を負うた適例であったが、済南事件の責任を福田司令官に帰し、満洲事件を村岡司令官に帰したことは厚顔無恥であるとした。この批判に対して田中は「この如き事に責任を負うたら総理大臣は何万居っても足らぬ」と豪語したところ、中野は「政略出兵の責任を軍部に転嫁するような総理大臣がいたら日本帝国の国軍は何百万人居っても足らないこととなる」とさらに糾弾した。 軍法会議によって容疑者を厳罰に処すべきと主張していたにもかかわらず、1929年(昭和4年)6月27日に田中は、関東軍は張作霖爆殺事件とは無関係であったと昭和天皇(以下「天皇」)に奏上したところ、天皇は「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」と田中を直接詰問した。このあと奥に入った天皇は鈴木貫太郎侍従長に対して、「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ。再びきくことは自分は厭だ」との旨を述べたが、これを鈴木が田中に伝えてしまったところ、田中は涙を流して恐懼し、7月2日に内閣総辞職した。 ウィキソースに田中義一内閣総理大臣の辞表の原文があります。
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張作霖爆殺事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 13:27 UTC 版)
1928年(昭和3年)6月4日の張作霖爆殺事件に於いて、実行者として爆破スイッチを押したという。
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