対米戦争とは? わかりやすく解説

対米戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/01 07:10 UTC 版)

フィリピン独立革命」の記事における「対米戦争」の解説

詳細は「米比戦争」を参照 しかし1899年3月31日には早くも首都マロロス陥落し以後共和国政府中部ルソン地方タルラク州・ヌエバ・エシハ州転々と移動することを余儀なくされた。そして11月12日アギナルド大統領パンガシナン州バヤンパンで正規軍解体遊撃隊によるゲリラ戦布告しルソン北部山岳地帯撤退した。 しかし独立派圧倒的に優勢な米軍相手にねばり強さ見せるのはこれ以降であったアギナルド政権下で非主流派として脇に押しやられていたボニファシオ派や革命的宗教結社などは熾烈なゲリラ戦展開して長期間にわたり米軍悩ませた。1901年3月23日イサベラ州米軍捕らわれたアギナルド4月1日アメリカ支配への忠誠を誓うとともに同じ独立派の諸部隊にも停戦と降伏命じ同じく捕虜となったマビニやリカルテらが断固として服従拒否した態度比して、これらはアギナルド人気著しく凋落させる結果となった)、こののち各地独立派幹部投降相次いだことから、同年7月アメリカ軍政より民政移行し早々米国忠誠誓っていた親米派フィリピン人(かつてプロパガンダ運動支持していた新興有産層が多かった)を行政機構登用有力者取り込むことでアメリカ統治体制安定はかった。 ところがアギナルド従わず革命軍最高司令官」を称したミゲル・マルバール将軍など抵抗継続する勢力もあり、マルバール投降1902年4月)後の、1902年7月4日になってセオドア・ローズヴェルト米大統領はようやく独立勢力の「平定」を宣言した。しかしその後も、農民など下層民の支持を受け「タガログ共和国」を称したマカリオ・サカイ率いゲリラ部隊1904年1906年)など反米ゲリラはやまず、米軍投降勧奨政策徹底弾圧政策(この時米軍ゲリラ農民結びつき絶つために採用した戦略村」は、ベトナム戦争にいたるまで米軍対ゲリラ戦争の主要な戦術となった)を併用しつつこれらの独立派勢力を完全に鎮圧し植民地支配体制確立したのは1910年頃のことであったかくしてフィリピン(および東南アジア史上初の植民地独立革命アメリカ侵略により挫折終わり真の独立実現第二次世界大戦後1946年まで持ち越されることになった

※この「対米戦争」の解説は、「フィリピン独立革命」の解説の一部です。
「対米戦争」を含む「フィリピン独立革命」の記事については、「フィリピン独立革命」の概要を参照ください。

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