桐工作以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 15:53 UTC 版)
その後も「汪・蔣政権の合作」「非併合・非賠償」「中国の独立」をもとにした条件が行われたが、蔣介石は中国本土への日本軍の防共駐屯には断固反対し、一方東條英機も日本軍の無条件撤退に断固反対した。1941年(昭和16年)の南部仏領インドシナ進駐により、アメリカ合衆国は日本に抗議して石油の対日輸出を禁止し、日米戦争回避のための交渉も持たれたが、11月にはハル・ノートが提示され、12月、日米開戦に至った(太平洋戦争)。石井秋穂中佐によれば、陸軍が蒙疆・華北への駐兵に固執したのは、対米交渉の破綻が目的ではなく、アメリカは華北の共産化の危機を理解するであろうと期待したためであったという。中国の共産化と対米戦争は帝国陸軍が最も避けたかった事態であり、中国の共産化を防ぐために駐兵に固執したことが、逆に真珠湾攻撃を招くこととなったのである。
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