総理候補
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1941年(昭和16年)、第3次近衛内閣が退陣した際に全国治水砂防協会会長であった末次は総理候補との噂が流れた。事実、海軍省調査課長の高木惣吉や矢部貞治らが末次首班実現に動いていた。また陸軍省軍務局の予想していた首班筆頭候補も末次であった。 対米戦争となれば軍事的主役は海軍であり、内務大臣の閲歴を持つ海軍大将、枢軸派、そして日米開戦論者である末次が首班となることは蓋然性があった。しかし昭和天皇を始めとする宮中関係者は、末次と右翼団体とのつながりを危惧しており、末次への信任はなかった。重臣会議で末次を推すものもなく、内大臣・木戸幸一が推した東條英機が首班に指名された。末次は落胆したという。 東條内閣により「帝国国策遂行要領」の再検討が行われた後も国策に変更はなく、1941年(昭和16年)12月8日、日本海軍は真珠湾攻撃を実施した。
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