総理大臣にとは? わかりやすく解説

総理大臣に

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 02:40 UTC 版)

片山哲」の記事における「総理大臣に」の解説

1945年昭和20年)に日本社会党結成されると書記長に就任翌年には日本社会党委員長初代)選出された。1947年昭和22年)の第23回総選挙日本社会党143議席獲得し衆議院比較第一党となる。これを受けて衆議院首班指名選挙では、420議員片山投票し片山内閣総理大臣となる。この首班指名選挙では2位吉田茂齋藤晃の1票のみであったため、片山得票数420票)と2位との差(419票差)は、衆議院首班指名選挙における最高記録となっている。 「片山内閣」も参照 片山民主党国民協同党連立内閣組閣する片山内閣日本社会党党首首班とする初の内閣であり、日本国憲法施行後初の内閣でもあった。片山高潔な人柄広く知られており、世間からの期待高く内閣支持率68%にも上った。しかし、もともと片山先の選挙での地滑り的勝利を収めるまで自身一国舵取りをすることなど想定しておらず、保守との連立政権滑り出しから閣内意見まとまらず親任式当日まで閣僚が決まらなかった。このため片山が全閣僚兼任して親任式臨み一人内閣凌ぐこととなった閣僚決まった後も鈴木茂三郎党内左派突き上げ続き、また終始GHQ言いなりであったため、政権運営政争不得手な片山は「グズ哲」とあだ名されることとなる。 政権としては、国家公務員法制定内務省解体警察制度の改革労働省設置失業保険創設封建的家族制度廃止目標とした改正民法制定刑法改正などを実現した。その一方で社会主義理論鵜呑みにして国有化国家管理政策こだわり公社公団乱発し、いい加減な財源調達による公的融資拡大した評された。特に臨時石炭鉱業管理法物議を醸し修正重ねて成立に5ヶ月要している。これが与党内の首相からの離反招き、さらに平野力三農林大臣罷免その後人事巡って党内紛糾し予算成立待たずして短期間内閣総辞職せざるを得なくなり、8ヶ月短命政権となった片山の後は、連立与党民主党率い芦田均が同じ連立枠組み芦田内閣組織したが「政権たらい回し」の批判浴び、やがて昭電疑獄の嵐の中であえなく総辞職したその後少数与党として発足した第2次吉田内閣が、紆余曲折の末に衆議院解散したことで臨んだ1949年昭和24年1月第24回総選挙では、昭電疑獄逆風をもろに受けた日本社会党143議席から48議席激減するという大敗喫し委員長だった片山次点落選という憂き目見た現職野党第一党党首落選は、その後2014年平成26年)の第47回総選挙民主党代表海江田万里落選するまでの65年間、これが唯一の出来事だった。日本社会党1951年昭和26年10月分裂至り片山委員長退いた

※この「総理大臣に」の解説は、「片山哲」の解説の一部です。
「総理大臣に」を含む「片山哲」の記事については、「片山哲」の概要を参照ください。

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