政争
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政争(せいそう、political strife)とは、政治における争いのことである。また、与野党で政権を奪い合い、政権を獲得又は選挙で勝利するために対決姿勢で相手を追い落とそうする行為。更には同じ党内における党内権力闘争などを含む政治的な抗争のことである[1][2]。
事例
戦前の日本の一般庶民には政党政治は、とかく利権誘導や、野党が与党、与党が野党と反対党に対する追い落とし目的の政争ばかりを繰り返しているように見えていた。そのため、政党政治・財閥を含む政治への不満から1932年に五一五事件が起きた際に、犬養毅首相を殺害した海軍軍人の被告人たちに国民から数多くの減刑の嘆願書が寄せられる助命運動が起きた[3]。
政争を繰り返す政党政治は、政治家への失望と憎悪へ繋がり、重臣、軍閥、財閥、と共に、1936年の二・二六事件の原因となった[4]
ねじれ国会の中で、野党が政権奪取を目的に仕掛けた政争が、最悪の結果を招いたのが天皇機関説事件である。1935年(昭和10年)、内閣による軍事権限の行使を排除したいと考える軍部と、議会で過半数を占める野党・立憲政友会が、海軍穏健派の岡田啓介首相率いる岡田内閣(立憲民政党)に対し、天皇機関説を口実に攻撃で連携した。天皇機関説は、「統治権は法人たる国家に属し、その最高機関たる天皇が国務大臣の輔弼を受けて行使する」とする解釈であり、これは内閣の軍事への関与を憲法的に正当化する主流学説であった。これを不敬と断じた政友会と軍部は、岡田内閣の打倒を狙って政治的攻撃を仕掛けたのである。この動きは選挙を見据えた政争であったが、結果的に立憲政友会による政党政治に対する自殺行為となった[5]。
政争の具
「政争の具」とは、政争に勝つために利用する事柄や手段[6][7]。英語でpolitical footbal[7]。アメリカでは、新型コロナウイルス禍以降に、マスク着用やワクチン接種が政争の具になった[8]。日本製鐵によるUSスチール買収計画も、労組票目当てでバイデン候補とトランプ候補の政争の具にされた[9]。
脚注
- ^ “暮らしそっちのけの政争/民主代表選で志位委員長”. www.jcp.or.jp. 2022年7月25日閲覧。
- ^ 高橋正衛『二・二六事件―「昭和維新」の思想と行動』p27,中公新書,1994年
- ^ “五・一五事件は2年前にすでに予告されていた!? | 渡部昇一 | テンミニッツTV” (jp). 10mtv.jp. 渡部昇一. 2022年7月25日閲覧。
- ^ 高橋正衛『二・二六事件―「昭和維新」の思想と行動』中公新書、増補新版1994年
- ^ “近代発 見果てぬ民主Ⅸ <4> 天皇機関説事件 学説排撃に野党飛び付く”. 中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター. 2025年5月6日閲覧。
- ^ デジタル大辞泉. “政争の具(セイソウノグ)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2025年5月6日閲覧。
- ^ a b “政争の具の英訳”. eow.alc.co.jp. 2025年5月6日閲覧。
- ^ “政争の具”. 西日本新聞me (2025年5月6日). 2025年5月6日閲覧。
- ^ “USスチール買収計画は政争の具に…トランプ氏「反対」明言、バイデン氏も労組票狙う”. 読売新聞オンライン (2024年3月16日). 2025年5月6日閲覧。
政争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 13:45 UTC 版)
桓温は白石に帰還すると、上疏して姑孰に帰る事を求めた。朝廷は桓温を丞相に進めた上で、建康に留まって社稷を守るよう詔を下したが、桓温はこれを固辞して鎮所に戻る事を求めた。朝廷は侍中王坦之を派遣し、桓温を相として朝廷に迎え、1万戸を加増する事を伝えたが、これも受けなかった。さらに詔が下り、袁真の反乱により西府の物資が不足していた事から、世子の桓熙に布3万匹・米6万斛が与えられ、次子の桓済は給事中に任じられた。 7月、簡文帝が重篤な病となると、桓温へ後事を託す旨を伝え、すぐに参内するよう命じた。詔は1夜の内に4度発せられたが、桓温は謝安と王坦之に後事を託すべきだと上奏し、入朝しなかった。この上奏が通る前に簡文帝は崩御した。死の間際に簡文帝は桓温へ『家国の事は全て公に託すので摂政となり周公に倣え』と遺詔を残したが、王坦之はこれを『諸葛武侯(諸葛亮)・王丞相(王導)の故事のようにせよ』と書き換えた。桓温は簡文帝が自分に禅譲するか、もしくは周公のように居摂を求められると思っていたので、望み通りにならなかった事を知ると甚だ憤怒した。弟の桓沖に書を送って「遺詔には我に武侯(諸葛亮)、王公(王導)の故事に依れとしか無かったわ」と伝えた。簡文帝が崩御した後、群臣は桓温の反発を恐れて太子の擁立を行えず、桓温に決定権を委ねようとしたが、尚書僕射王彪之はこれに猛反対して太子の司馬曜(孝武帝)に位を継がせた。褚太后は孝武帝が幼く、また服喪の期間であったことから、桓温に摂政を任せる様提言したが、王彪之により阻止された。これより、王氏・謝氏が大権を握るようになったので、桓温は日々不満を抱きながら過ごした。 孝武帝が即位すると詔が下り、内外の事務政務は全て桓温に諮問した上で行うこととした。後に孝武帝は謝安を派遣すると、改めて桓温に入朝を求めた。同時に、前部羽葆鼓吹・武賁60人を加える事を伝えたが、桓温はこれを固辞した。 寧康元年(373年)2月、桓温は入朝に同意すると山陵(簡文帝の陵墓高平陵)へ赴いた。桓温の入朝に合わせて詔が下り、桓温は常に無敬のままでいる事を許された。また、尚書謝安らには桓温を新亭に奉迎し、百官はみな道で拝するよう命じられた。当時、地位・人望があった者は、皆この命令に戦慄して青ざめた。建康では流言が広まり、桓温が王氏・謝氏を誅殺し、晋朝は転覆するだろうと言われた。桓温が到来すると、妖賊の盧悚が宮殿の庭に侵入するという事件が起こった。桓温はこれを理由に尚書陸始を捕えるよう廷尉に命じ、罪を咎めたうえで殺した。しばらくして、桓温は病を発して姑孰へ戻った。建康に滞在したのはわずか14日であった。 姑孰へと戻ると、さらに病状が悪化し、起き上がることが出来なくなった。桓温は死期が近いのを悟り、朝廷へ根回しをして九錫を加えるよう何度も催促したが、謝安と王坦之は桓温の容態が悪い事を知ると、その実行を出来るだけ遅らせた。 7月、九錫を下賜する文が完成する前に桓温は死去した。享年62であった。丞相が追贈され、宣武と諡された。皇太后と孝武帝は共に朝堂で三日に渡って臨した。そして、九命・袞冕の服・朝服1具・衣1襲・東園の秘器・銭200万・布2千匹・臘500斤を下賜して、喪事に供するよう詔を下した。喪礼については、全て太宰安平献王司馬孚・漢大将軍霍光の故事に倣って行われ、九旒鸞輅・黄屋左纛・轀輬車・挽歌2部・羽葆鼓吹・武賁班剣100人が下賜された。また、前南郡公に7500戸を加増し、方三百里を進地とする優冊が出され、さらに銭5千万・絹2万匹・布10万匹が下賜された。 元興2年(403年)11月、子の桓玄が桓楚を建てると、桓温を追尊して宣武皇帝とし、廟号は太祖とした。その墓は永崇陵と名付けられた。
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