政争の流れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/26 08:00 UTC 版)
1966年に文化大革命が勃発した後、国家主席の座にあった劉少奇は毛沢東との間に深刻な対立を生じ、「実権派(走資派)」として攻撃対象の筆頭にされて以降、急速に権勢が失われ、1968年の第八期中央委員会第十二回全体会議で党内外のすべての職務から罷免、党からも除名されて、その翌年、迫害の上、死に至らしめられた。 劉少奇の罷免後、国家主席の地位は空席となり、2人の国家副主席(宋慶齢と董必武)が名目上の国家主席の職務を代行したものの、国家副主席の身分が国家主席に取って代わることはなかった。 劉少奇の死後、1970年に毛沢東は新憲法の制定を企図したが、そこで国家主席職を廃止することを指示した。一方で林彪は毛沢東を国家主席に復帰させることを主張し、これは政治局で大方の支持を得た。康生にいたっては「もし毛沢東が国家主席に就くことを望まないのであれば、林彪に国家主席をお願いしたい」と述べた。しかし、毛沢東が「かつて孫権から帝位を勧められた曹操は、孫権が自分を火炙りにしようとしていると看破した。私を曹操にしてはいけないし、君たちも孫権になってはならない。」といって釘を差したため、政治局での国家主席設置論は勢いを失った。 しかし、中国共産党9期第2回中央委員会全体会議(中国語版)(廬山会議)の席で、林彪とその盟友であった陳伯達は「毛沢東天才論」を発表し、毛沢東に党中央委員会主席の身分で国家主席を兼任するように煽った。これに反対した張春橋は林彪派から「毛沢東の謙遜につけこんで毛沢東と毛沢東思想を否定しようとしている」とされ、農場で労働改造に服すことを要求された。ところが、毛沢東は大字報を用いて陳伯達らを批判し、「天才論」の撤回と議論の中止を要求した。これにより議論は中止され、また、林彪が自ら国家主席になろうとしているのではないかと毛沢東が疑っていることが示された。 翌1971年に毛沢東が南巡した際にこの件を蒸し返したため、危機感を覚えた林彪周辺により林彪事件(913事件)が起こされ、林彪が国外に逃亡しようと乗っていた飛行機の墜落事故で死亡したことで、国家主席の廃止と存続を巡る政争は一段落した。しかし、毛沢東はすぐに国家主席の職務を廃止するのではなく、1972年、董必武に「国家主席代理」を担当させた。 そして1975年、第4期全国人民代表大会(第4期全人代)が開催され、憲法改正の手続きを踏むという方法で、正式に国家主席と国家副主席の職務を廃止した。これにより、全国人民代表大会常務委員会委員長が国家元首格として扱われた。
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