政争への関与と衰退とは? わかりやすく解説

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政争への関与と衰退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 04:38 UTC 版)

大伴氏」の記事における「政争への関与と衰退」の解説

大伴氏奈良時代から平安時代前期にかけての藤原氏による他氏排斥により、一族から多数処罰者を出し徐々に勢力衰えていく。 神亀6年729年)に発生した長屋王の変では、長屋王親しかった大伴旅人事件前後に一時的に大宰府左遷される。その後奈良時代中期藤原仲麻呂政権下において、天平勝宝9年757年)の橘奈良麻呂の乱で、大伴古麻呂獄死大伴古慈斐流罪称徳天皇崩御後復帰)に処されるまた、大伴家持別途藤原仲麻呂暗殺計画に関わっていたとされ、天平宝字8年764年薩摩守左遷されている。 その後家持天応2年782年)に発生した氷上川継の乱連座して解官憂き目遭いつつも、最終的に桓武朝初頭中納言にまで昇った。延暦3年784年桓武天皇長岡京への遷都実行する大伴氏はこの政策に不満を持っていたとされ、遷都責任者であった中納言藤原種継暗殺する事件藤原種継暗殺事件)を起こす乱後大伴古麻呂の子・継人は首謀者として死刑直前没していた家持除名された。 平安時代初期には、初代征夷大将軍となって蝦夷征討功績挙げ従三位に昇った大伴弟麻呂や、藤原種継暗殺事件首謀者大伴継人の子として若くして流罪となるも、恩赦後に内外諸官業績上げて参議に任ぜられた大伴国道公卿輩出している。また、弘仁14年823年淳和天皇大伴親王)が即位するとその諱を避けて一族は伴(とも)と氏を改めた承和9年842年)に発生した承和の変では伴健岑首謀者として流罪となり、藤原氏による他氏排斥伴氏打撃受けたとされるが、実際に五位上の氏人連座した者はいなかった。 その後国道の子伴善男仁明天皇知遇受けて頭角現し清和朝貞観6年864年)には旅人以来130年振り大納言昇る。しかし、貞観8年866年)に発生した応天門の変では善男中庸父子首謀者とされてその親族多数流罪となる。

※この「政争への関与と衰退」の解説は、「大伴氏」の解説の一部です。
「政争への関与と衰退」を含む「大伴氏」の記事については、「大伴氏」の概要を参照ください。

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