清和朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 14:24 UTC 版)
貞観2年(860年)参議に任じられ公卿に列す。貞観3年(861年)式部大輔を兼ね、貞観4年(862年)正四位下に叙せられる。また、文徳朝より取り組んでいた国史編纂作業は、伴善男の応天門の変による失脚などがあって、最終的に良房と2人のみ(実際には善縄の単著)となって、貞観11年(869年)に『続日本後紀』として完成させた。 貞観12年(870年)病気により重態となる。同年2月7日にはこれまでの功労に報いるために急遽従三位に叙せられ、太政大臣・藤原良房から見舞いとして朝服が届けられた。同月19日に薨去。享年74。最終官位は参議従三位行式部大輔兼讃岐守。
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