清和天皇との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/06 18:52 UTC 版)
平安時代前期、文徳天皇の第4皇子であり9歳で即位した清和天皇(850-880)は水尾の地をこよなく愛し、水尾帝とも呼ばれた。清和天皇は27歳で陽成天皇に譲位した後、30歳の時に仏道修行のために近畿各地を回り、その最後に水尾の山寺に入った。清和天皇は水尾の地を終焉の地と考え、31歳の時に洛東の円覚寺で亡くなった。遺骨は遺詔(遺言)によって水尾の水尾山寺に葬られ、清和天皇水尾山陵(みずのおやまのみささぎ)は集落から水尾川を渡って対岸にある清和山の中腹に設けられている。清和天皇を祭神とする清和天皇社は水尾の氏神であり、境内には摂社として四所神社が祀られている。両社の創始年代は不明。応永27年(1420年)に洛東の円覚寺が焼失すると、水尾山寺が円覚寺の名を継承し、水尾の円覚寺は延宝7年(1679年)の大火で焼失したが、約100年後の安永5年(1776年)に再建された。
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