平安時代前期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 15:13 UTC 版)
延暦23年(804年)、蝦夷の反乱が激しくなり、秋田城は停廃されて秋田郡となった。ただし機能が完全に停止されることはなく、陸奥側の北部4郡が放棄されたのと異なり、俘囚の主とされる清原氏は在庁官人として力を蓄えたと見られている。8世紀に河辺郡が置かれ、山本郡(後の仙北郡)が平鹿郡から分離するなど、徐々に領域を北へ伸ばした。仁和2年(886年)には最上郡から村山郡が分離し、その後延喜年間までに出羽郡から飽海郡・田川郡が分離したと見られている。最終的に、出羽国が管理したのは11郡58郷であった。なお、平安時代まで出羽は「いでは」と読んでいた。 天長7年(830年)、嘉祥3年(850年)には大地震に見舞われた。830年の地震は『日本後紀』に秋田城近くの大きな川の水が無くなったことが、850年の地震は『日本三代実録』に津波が城輪柵の近く6里にまで迫ったことが記されている。
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