平安時代中期・後期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 09:16 UTC 版)
「近代以前の日本の都市人口統計」の記事における「平安時代中期・後期」の解説
一般には平安時代中期の10世紀頃より平安京の北、東への膨張が始まったと考えられている。慶滋保胤の『池亭記』には、右京が衰退し、左京の北半分には上級貴族の大邸宅が林立している10世紀末の平安京が描かれており、チャンドラーは10世紀後半より平安京は人口減少局面に入ったとして1000年頃の人口を17万5000人と推定している。 しかしながら考古学的調査では、元々右京は開発困難な湿地帯が未開発のまま残されており、右京の幹線道路沿いに町屋が島状・帯状に立ち並ぶような、田園と町通りが混在した状況が平安遷都当初から続いていたと推定され、むしろ市街は洛外へ膨張していた。やがて鴨川の東に白河が造営された。平安時代後期に入ると、南側には鳥羽に離宮が造営され、その結果左京南部に初めて市街が形成される。また平安時代中期まで維持・管理が続けられた条坊制は11世紀半ばに終焉する。
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