平安時代中・後期の陰陽師とは? わかりやすく解説

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平安時代中・後期の陰陽師

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 18:42 UTC 版)

陰陽師の一覧」の記事における「平安時代中・後期の陰陽師」の解説

滋岳川人(しげおかのかわひと) ? - 868年貞観10年) 「滋丘川人」とも呼ばれる平安時代前-中期文徳天皇清和天皇の頃に活躍した陰陽師いわゆる宮廷陰陽道始祖とされ、式占遁甲大家呪術にも長け、しばしば虫害除去雨乞い祭祀行ったとされる。 『世要動静教(せようどうせいきょう)』『指掌宿曜経ししょうすくようきょう)』『滋岳新術遁甲書(じがくしんじゅつとんこう)』『六甲六帖(ろっこうりくじょう)』『宅肝経(たっかんきょう)』など多数技術書を著したとされるが、現存する著書はない。 『今昔物語集』には、安倍安仁とともに過ち犯し地神つちのかみ)の怒りをかって追われるものの、滋岳川人が得意とした隠形の術身を隠し逃げ延びることができたという「滋岳川人地神に追はるる語」という話で知られる陰陽博士 854年斉衡元年)-874年貞観16年)。兼・陰陽854年斉衡元年)。兼・陰陽権助 857年天安元年)-865年貞観7年)。兼・播磨国大掾 861年貞観3年)。兼・陰陽頭 874年貞観16年)。 弓削是雄(ゆげのこれお) ? - ? 平安時代中期清和天皇宇多天皇の頃に活躍した陰陽師、滋丘川人弟子怪僧と言われ道鏡とは同族で、式占達人であったといわれている。藤原有陰(ふじわらのありかげ)に招かれ近江赴いた際、穀院の使者である伴世継(とものよつぎ)と行き会い悪夢見たと言う世継弓削是雄占ってもらい対策をしてもらって九死に一生得たという話(『今昔物語集』天文博士弓削是雄、夢を占ふ語」)や、陰陽頭在任時に60歳過ぎていまだに試験合格せず僧侶の位がなかなか得られない修行者憐れんで、何とか試験合格させてやろうと呪術用いて立会試験官排除してしまい、仲の良かった三善清行一存でその高齢修行者合格させてやったという話(『善家異説』)などが知られている。 陰陽師 864年貞観6年)-873年貞観15年)。陰陽允 873年貞観15年)-877年元慶元年)。陰陽権助 877年元慶元年)-885年仁和元年)。陰陽頭 885年仁和元年)。 三善清行 みよしきよゆき(みよしきよつら) 847年承和14年) - 919年延喜18年平安時代中期漢学者別称、善相公権力屈しない正義漢であったため出世遅れたとされる。 本来は陰陽寮生出身の陰陽師ではなく大学寮文章道修めた漢文学者だが、天文陰陽易学通じていた。讖緯説周期的予言辛酉甲子の年には革令があるとの中国の説)にもとづいて改元上奏して認められ元号延喜改められ以降周期的災厄説による辛酉年・甲子年の災異改元通例となった文章博士 900年昌泰3年) - 910年延喜10年)。兼 大学頭、兼 伊勢権介 901年昌泰4年)。兼 式部少輔 903年延喜3年)。式部権大輔 兼 備権守905年延喜5年)。参議宮内卿 917年延喜17年)。兼 播磨権守918年延喜18年)。 賀茂忠行かものただゆき) ? - 960年天徳4年) 後に世襲陰陽家名門となった賀茂氏の祖。賀茂保憲の父。安倍晴明の師。奈良時代活躍した修験道開祖役小角末裔であると言われている。940年承平天慶の乱勃発した際、この対策のために時の権力者藤原師輔に、当時密教高僧でも知らなかったとされている「白衣観音法」を進上しことがきっかけで重用されようになった陰陽道かぎらず天文道暦道など様々な分野明るかったほか、卜占にもよく通じておりその正確さは有名で、村上天皇水晶念珠見えないように箱に入れてその中身を占じさせたところ、見事に言い当てたという伝説残っている(三善為康朝野群載』)。早くから嫡男賀茂保憲弟子安倍晴明才能見出し育成したことで知られている。 賀茂保憲(かものやすのり) 917年延喜17年)-977年貞元2年賀茂忠行の子で父と並び平安中期代表する陰陽師のひとり。安倍晴明および長男賀茂吉平の師、「当朝は保憲をもって陰陽規模となす」と賞賛されるほどの評価得ていた。官僚としても出世して陰陽頭にまでなっている。嫡子賀茂光栄暦道を、弟子安倍晴明天文道をあまなく伝授し、後の賀茂氏安倍氏の2家世体制の礎を作った『今昔物語集』に、弟子安倍晴明との間で隠され中身当てる占術試合「占覆(せきふ)」を行った話が収録されているとされ、また「暦」「保憲抄」という暦道陰陽道技術書を著したとされているが、どれも現存していない。 賀茂光栄(かものみつよし) 939年天慶2年 )-1015年長和4年賀茂保憲嫡子安倍晴明並び称される陰陽師。父・賀茂保憲天文道安倍晴明伝授禅譲したため暦道のみを継承することとなり、これが原因安倍晴明ライバル視していたことが『続古事談』に記されている。暦道優れたほか予知能力にも長けており「的中すること掌を返す如し」と絶賛された。藤原道長安倍晴明とともに呼び寄せて頻繁に相談占術を行わせていたことが『御堂関白記』や『栄花物語』にも記されており、多く貴人から重用された。 安倍晴明あべのせいめい921年延喜21年)-1005年寛弘2年) 後の土御門氏の祖。遣唐使参加して陰陽本場城刑山で伯道上人(白道仙人とも)に学び帰国する特殊化秘伝秘術化した独特の陰陽道築き上げた陰陽道の名典『簠簋内伝金烏玉兎集』を著したとも言われているが、伯道上人に教え受けた際にこれを授けられたという説も多い。ただし晴明著作として確認されているのは、晴明の子孫である土御門家伝わった占事略决」のみである。陰陽諸道の中で最も難しと言われていた天文道長じ朱雀村上冷泉円融花山一条6代天皇藤原道長藤原実資重用され影響力ふるった天文博士勤めた後には陰陽寮超えて主計権助大膳大夫左京権大夫大国である播磨守などの官職歴任して従四位下」まで昇進した時の権力者の影となり日なたとなり活躍したために出世したと言われている一方で極めて謎の多い人物でもある。セーマン晴明桔梗晴明紋・五芒星)という呪符使い人形使って「青龍」勾陣」「六合「朱雀」騰蛇」「天乙貴人」「天后」「大陰「玄武」「大裳」「白虎」天空」の式神十二神将自由に駆使し驚異的な呪術展開したとされている。また、没後かなり早い段階から“が話す言葉理解できた”、“母は信田棲む葛の葉」という白狐だった”、その超人ぶりと特異性あまりにも誇張した数多く伝説残っており、『古事談『大鏡』『宇治拾遺物語』古今著聞集『今昔物語集』體源抄』『日本紀略』『権記『平家物語』大江山絵詞』『元亨釈書『源平盛衰記』発心集』『北条九代記』『私聚百因縁集』、歌舞伎文楽題目信田妻しのだづま)』『蘆屋道満大内鑑』、仮名草子安倍晴明物語』、近年では小説・漫画映画など中世から近世・現代に至るまであまたの著作題材として取り上げられている。1007年一条天皇によって屋敷址の一部建立され晴明神社は、一度焼失したものの復興されて京都府京都市上京区堀川通一条上る晴明町806番地1に現存しているほか、京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町には晴明神社飛地境内としてその墓標残っている。 安倍吉平(あべのよしひら) 954年天暦8年)-1026年万寿3年安倍晴明嫡子。父同様に賀茂光栄並び称される陰陽師として藤原道長藤原実資らに重用され天文博士陰陽博士から陰陽助にまで昇進し位階従四位上まで取り立てられた。五龍祭四角祭を勤め(『日本紀略』)、藤原頼通取り憑いた具平親王悪霊賀茂光栄と共に祈祷して取り除いたり(『宝物集』)、親仁親王(後の後冷泉天皇出産の際に死去した皇妃嬉子の入棺葬送に関する方法藤原頼道勘申したり(『栄花物語』)している。また『古今著聞集』には、医師丹波雅忠と宴を囲んでいた際に、地震予知したとの記載がある。 安倍吉昌(あべのよしまさ) 955年天暦9年)? - 1031年長元4年)? 安倍晴明次男感受性豊かで向学心強かったため賀茂保憲に目をかけられ1017年安倍晴明もなれなかった陰陽頭おんみょうのかみ)に昇進天文により、日食予知したことで知られる安倍章親(あべのあきちか) 安倍吉平の子1055年陰陽頭就任した際、賀茂氏暦博士を、安倍氏天文博士代々独占世襲させることと定めている。 安倍泰親(あべのやすちか) 陰陽頭安倍泰長の子安倍晴明5代の子孫。藤原頼長九条兼実重用され1182年陰陽頭卜占達人平家滅亡その時期まで予言的中させるなどし、「指神子さすのみこ)」と呼ばれた肩口落雷した際に袖を焼いたものの奇跡的に怪我一つ負わなかったとされている。安倍晴明事績混同されることが多い。 安倍泰成あべのやすなり) 安倍泰親の子陰陽道は学ばなかったとの話が伝わるが、神明鏡では、妖狐玉藻前呪術対決したとされる蘆屋道満あしやどうまん) (?-?道摩法師の名でも知られる平安中期の非官人陰陽師播磨国現在の兵庫県)の民間ヤミ陰陽師集団出身で、呪術長けドーマン九字を表す縦4本・横5本の格子模様)という呪符好んで使ったとか、安倍晴明晴明紋を使ってドーマンセーマン」と呼ばれるようになった等の説がある。安倍晴明当時関白藤原道長重用されていたのに対し蘆谷道満藤原道長政敵である左大臣藤原顕光道長への呪祖を命じられたとされ、これが両者永遠ライバルとしての関係を決定づけた。室町時代播磨地誌である『峰相記(ほうしょうき)』には、藤原顕光呪詛依頼され蘆谷道満安倍晴明にこれを見破られたために播磨流され道満の子孫が瀬戸内海寄り英賀三宅方面移り住み陰陽師の業を継いだ記されている。歌舞伎文楽演目芦屋道満大内鑑』をはじめとした著作で、しばしば安部晴明呪術合戦繰り広げるライバルとして登場するが、もっぱら晴明引き立てる悪役として描かれることが多い。 道満上京し晴明内裏争い負けた方が弟子になるという呪術勝負持ちかけたことにより、帝は大柑子(みかん)を16入れた長持占術当事者である両名には見せず持ち出させ「中に何が入っているかを占え」とのお題与えた。早速、道満長持中身予測し「大柑子16」と答えたが、晴明加持の上冷静に「鼠が16匹」と答えた観客であった大臣公卿らは中央所属陰陽師である晴明に勝たせたいと考えていたが中身は「大柑子」であることは明白に承知していたので晴明負けはっきりした落胆した。しかし、長持開けてみると、晴明式神駆使して鼠に変えてしまっており、中からは鼠が16出てきて四方八方走り回ったこの後約束通り道満は晴明弟子となったと言われているという話や、 遣唐使として派遣され唐の伯道上人のもとで修行をしていた晴明留守中に晴明の妻と懇ろになり不義密通始めていた道満が、晴明の唐からの帰国後に伯道上人から授かった書を盗み見て身につけた呪術晴明との命を賭けた対決勝利して晴明殺害し第六感晴明の死を悟った道上人が急遽来日して呪術晴明蘇生させ道満斬首その後晴明は書を発展させて『簠簋内伝金烏玉兎集』にまとめ上げた、といったように晴明ライバルとしての数々巷談逸話で有名である。 阿倍晴明伝説全国的に拡散したのと同様、蘆谷道満伝説大規模に拡がっており、日本各地に「蘆屋塚」「道満塚」「道満井」の類が数多く残っている。 智徳法師(ちとくほうし)(?-?播磨国の僧でありながら陰陽道呪法占術用いて金を稼いだ民間陰陽師。『今昔物語』の、海賊襲われ船主同情して陰陽の術を用いて船荷取り戻した話や、陰陽道を身につけて得意になり、噂に聞く安倍晴明実力確かめよう自分式神連れて呪術対決臨んだが、逆に安倍晴明式神たちを隠されてしまい、陳謝し自分式神返してもらうというエピソード知られる人物像環境設定酷似しているため、蘆谷道満同一人物ではないかとの説が有力である。 鬼一法眼きいちほうげん)(おそらく平安後期) 京の一条堀川住んでいた伝説の陰陽師兵法家でもあり、源義経剣術教えたことでも有名。剣の大家京八流創始者でもある。

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