平安時代中・後期の陰陽師
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滋岳川人(しげおかのかわひと) ? - 868年(貞観10年) 「滋丘川人」とも呼ばれる、平安時代前-中期、文徳天皇・清和天皇の頃に活躍した陰陽師。いわゆる宮廷陰陽道の始祖とされ、式占・遁甲の大家で呪術にも長け、しばしば虫害除去や雨乞いの祭祀を行ったとされる。 『世要動静教(せようどうせいきょう)』『指掌宿曜経(ししょうすくようきょう)』『滋岳新術遁甲書(じがくしんじゅつとんこう)』『六甲六帖(ろっこうりくじょう)』『宅肝経(たっかんきょう)』など多数の技術書を著したとされるが、現存する著書はない。 『今昔物語集』には、安倍安仁とともに過ちを犯し地神(つちのかみ)の怒りをかって追われるものの、滋岳川人が得意とした隠形の術で身を隠し逃げ延びることができたという「滋岳川人、地神に追はるる語」という話で知られる。 陰陽博士 854年(斉衡元年)-874年(貞観16年)。兼・陰陽権允 854年(斉衡元年)。兼・陰陽権助 857年(天安元年)-865年(貞観7年)。兼・播磨国権大掾 861年(貞観3年)。兼・陰陽頭 874年(貞観16年)。 弓削是雄(ゆげのこれお) ? - ? 平安時代中期、清和天皇・宇多天皇の頃に活躍した陰陽師、滋丘川人の弟子。怪僧と言われた道鏡とは同族で、式占の達人であったといわれている。藤原有陰(ふじわらのありかげ)に招かれて近江に赴いた際、穀蔵院の使者である伴世継(とものよつぎ)と行き会い、悪夢を見たと言う伴世継が弓削是雄に占ってもらい対策をしてもらって九死に一生を得たという話(『今昔物語集』「天文博士弓削是雄、夢を占ふ語」)や、陰陽頭在任時に、60歳を過ぎてもいまだに試験に合格せず僧侶の位がなかなか得られない修行者を憐れんで、何とか試験に合格させてやろうと呪術を用いて立会の試験官を排除してしまい、仲の良かった三善清行の一存でその高齢修行者を合格させてやったという話(『善家異説』)などが知られている。 陰陽師 864年(貞観6年)-873年(貞観15年)。陰陽允 873年(貞観15年)-877年(元慶元年)。陰陽権助 877年(元慶元年)-885年(仁和元年)。陰陽頭 885年(仁和元年)。 三善清行 みよしきよゆき(みよしきよつら) 847年(承和14年) - 919年(延喜18年) 平安時代中期の漢学者。別称、善相公。権力に屈しない正義漢であったため出世が遅れたとされる。 本来は陰陽寮生出身の陰陽師ではなく、大学寮で文章道を修めた漢文学者だが、天文・陰陽・易学に通じていた。讖緯説(周期的予言説辛酉・甲子の年には革令があるとの中国の説)にもとづいて改元を上奏して認められ、元号が延喜と改められて以降、周期的災厄説による辛酉年・甲子年の災異改元が通例となった。 文章博士 900年(昌泰3年) - 910年(延喜10年)。兼 大学頭、兼 伊勢権介 901年(昌泰4年)。兼 式部少輔 903年(延喜3年)。式部権大輔 兼 備中権守905年(延喜5年)。参議 兼 宮内卿 917年(延喜17年)。兼 播磨権守918年(延喜18年)。 賀茂忠行(かものただゆき) ? - 960年(天徳4年) 後に世襲陰陽家の名門となった賀茂氏の祖。賀茂保憲の父。安倍晴明の師。奈良時代に活躍した修験道の開祖・役小角の末裔であると言われている。940年に承平天慶の乱が勃発した際、この対策のために時の権力者藤原師輔に、当時は密教の高僧でも知らなかったとされている「白衣観音法」を進上したことがきっかけで重用されるようになった。陰陽道にかぎらず天文道・暦道など様々な分野に明るかったほか、卜占にもよく通じておりその正確さは有名で、村上天皇が水晶念珠を見えないように箱に入れてその中身を占じさせたところ、見事に言い当てたという伝説が残っている(三善為康『朝野群載』)。早くから嫡男・賀茂保憲や弟子・安倍晴明の才能を見出し育成したことで知られている。 賀茂保憲(かものやすのり) 917年(延喜17年)-977年(貞元2年) 賀茂忠行の子で父と並び平安中期を代表する陰陽師のひとり。安倍晴明および長男賀茂吉平の師、「当朝は保憲をもって陰陽の規模となす」と賞賛されるほどの評価を得ていた。官僚としても出世して陰陽頭にまでなっている。嫡子の賀茂光栄に暦道を、弟子の安倍晴明に天文道をあまなく伝授し、後の賀茂氏・安倍氏の2家世襲体制の礎を作った。『今昔物語集』に、弟子の安倍晴明との間で隠された中身を当てる占術試合「占覆(せきふ)」を行った話が収録されているとされ、また「暦林」「保憲抄」という暦道や陰陽道の技術書を著したとされているが、どれも現存していない。 賀茂光栄(かものみつよし) 939年(天慶2年 )-1015年(長和4年) 賀茂保憲の嫡子。安倍晴明と並び称される陰陽師。父・賀茂保憲が天文道を安倍晴明に伝授禅譲したために暦道のみを継承することとなり、これが原因で安倍晴明をライバル視していたことが『続古事談』に記されている。暦道に優れたほか予知能力にも長けており「的中すること掌を返すが如し」と絶賛された。藤原道長が安倍晴明とともに呼び寄せて頻繁に相談や占術を行わせていたことが『御堂関白記』や『栄花物語』にも記されており、多くの貴人から重用された。 安倍晴明(あべのせいめい) 921年(延喜21年)-1005年(寛弘2年) 後の土御門氏の祖。遣唐使に参加して陰陽の本場城刑山で伯道上人(白道仙人とも)に学び、帰国すると特殊化・秘伝秘術化した独特の陰陽道を築き上げた。陰陽道の名典『簠簋内伝金烏玉兎集』を著したとも言われているが、伯道上人に教えを受けた際にこれを授けられたという説も多い。ただし晴明の著作として確認されているのは、晴明の子孫である土御門家に伝わった「占事略决」のみである。陰陽諸道の中で最も難しいと言われていた天文道に長じ、朱雀・村上・冷泉・円融・花山・一条の6代天皇、藤原道長・藤原実資に重用されて影響力をふるった。天文博士を勤めた後には陰陽寮を超えて主計権助・大膳大夫・左京権大夫・大国である播磨守などの官職を歴任して「従四位下」まで昇進した。時の権力者の影となり日なたとなり活躍したために出世したと言われている一方で、極めて謎の多い人物でもある。セーマン(晴明桔梗・晴明紋・五芒星)という呪符を使い、人形を使って「青龍」「勾陣」「六合」「朱雀」「騰蛇」「天乙貴人」「天后」「大陰」「玄武」「大裳」「白虎」「天空」の式神十二神将を自由に駆使し、驚異的な呪術を展開したとされている。また、没後かなり早い段階から“鳥が話す言葉を理解できた”、“母は信田の森に棲む「葛の葉」という白狐だった”、その超人ぶりと特異性をあまりにも誇張した数多くの伝説が残っており、『古事談』『大鏡』『宇治拾遺物語』『古今著聞集』『今昔物語集』『體源抄』『日本紀略』『権記』『平家物語』『大江山絵詞』『元亨釈書』『源平盛衰記』『発心集』『北条九代記』『私聚百因縁集』、歌舞伎や文楽の題目『信田妻(しのだづま)』『蘆屋道満大内鑑』、仮名草子『安倍晴明物語』、近年では小説・漫画・映画など、中世から近世・現代に至るまであまたの著作の題材として取り上げられている。1007年に一条天皇によって屋敷址の一部に建立された晴明神社は、一度は焼失したものの復興されて京都府京都市上京区堀川通一条上る晴明町806番地1に現存しているほか、京都市右京区嵯峨天竜寺角倉町には晴明神社の飛地境内としてその墓標が残っている。 安倍吉平(あべのよしひら) 954年(天暦8年)-1026年(万寿3年) 安倍晴明の嫡子。父同様に賀茂光栄と並び称される陰陽師として藤原道長・藤原実資らに重用され、天文博士・陰陽博士から陰陽助にまで昇進し、位階は従四位上まで取り立てられた。五龍祭や四角祭を勤め(『日本紀略』)、藤原頼通に取り憑いた具平親王の悪霊を賀茂光栄と共に祈祷して取り除いたり(『宝物集』)、親仁親王(後の後冷泉天皇)出産の際に死去した皇妃嬉子の入棺・葬送に関する方法を藤原頼道に勘申したり(『栄花物語』)している。また『古今著聞集』には、医師・丹波雅忠と宴を囲んでいた際に、地震を予知したとの記載がある。 安倍吉昌(あべのよしまさ) 955年(天暦9年)? - 1031年(長元4年)? 安倍晴明の次男。感受性豊かで向学心が強かったため賀茂保憲に目をかけられ、1017年に安倍晴明もなれなかった陰陽頭(おんみょうのかみ)に昇進。天文により、日食を予知したことで知られる。 安倍章親(あべのあきちか) 安倍吉平の子。1055年に陰陽頭に就任した際、賀茂氏に暦博士を、安倍氏に天文博士を代々独占世襲させることと定めている。 安倍泰親(あべのやすちか) 陰陽頭安倍泰長の子、安倍晴明5代の子孫。藤原頼長や九条兼実に重用されて1182年陰陽頭。卜占の達人で平家滅亡とその時期まで予言的中させるなどし、「指神子(さすのみこ)」と呼ばれた。肩口に落雷した際に袖を焼いたものの奇跡的に怪我一つ負わなかったとされている。安倍晴明と事績が混同されることが多い。 安倍泰成(あべのやすなり) 安倍泰親の子。陰陽道は学ばなかったとの話が伝わるが、神明鏡では、妖狐・玉藻前と呪術で対決したとされる。 蘆屋道満(あしやどうまん) (?-?) 道摩法師の名でも知られる平安中期の非官人陰陽師。播磨国(現在の兵庫県)の民間(ヤミ)陰陽師集団出身で、呪術に長けドーマン(九字を表す縦4本・横5本の格子模様)という呪符を好んで使ったとか、安倍晴明の晴明紋を使って「ドーマンセーマン」と呼ばれるようになった等の説がある。安倍晴明が当時の関白藤原道長に重用されていたのに対し、蘆谷道満は藤原道長の政敵である左大臣藤原顕光に道長への呪祖を命じられたとされ、これが両者の永遠のライバルとしての関係を決定づけた。室町時代の播磨の地誌である『峰相記(ほうしょうき)』には、藤原顕光に呪詛を依頼された蘆谷道満は安倍晴明にこれを見破られたために播磨に流され、道満の子孫が瀬戸内海寄りの英賀・三宅方面に移り住み陰陽師の業を継いだと記されている。歌舞伎や文楽の演目『芦屋道満大内鑑』をはじめとした著作で、しばしば安部晴明と呪術合戦を繰り広げるライバルとして登場するが、もっぱら晴明を引き立てる悪役として描かれることが多い。 道満が上京し晴明と内裏で争い負けた方が弟子になるという呪術勝負を持ちかけたことにより、帝は大柑子(みかん)を16個入れた長持を占術当事者である両名には見せずに持ち出させ「中に何が入っているかを占え」とのお題を与えた。早速、道満は長持の中身を予測し「大柑子が16」と答えたが、晴明は加持の上冷静に「鼠が16匹」と答えた。観客であった大臣・公卿らは中央所属の陰陽師である晴明に勝たせたいと考えていたが中身は「大柑子」であることは明白に承知していたので晴明の負けがはっきりしたと落胆した。しかし、長持を開けてみると、晴明が式神を駆使して鼠に変えてしまっており、中からは鼠が16匹出てきて四方八方に走り回った。この後、約束通り道満は晴明の弟子となった、と言われているという話や、 遣唐使として派遣され唐の伯道上人のもとで修行をしていた晴明の留守中に晴明の妻と懇ろになり不義密通を始めていた道満が、晴明の唐からの帰国後に伯道上人から授かった書を盗み見て身につけた呪術で晴明との命を賭けた対決に勝利して晴明を殺害し、第六感で晴明の死を悟った伯道上人が急遽来日して呪術で晴明を蘇生させ道満を斬首、その後に晴明は書を発展させて『簠簋内伝金烏玉兎集』にまとめ上げた、といったように、晴明のライバルとしての数々の巷談・逸話で有名である。 阿倍晴明伝説が全国的に拡散したのと同様、蘆谷道満伝説も大規模に拡がっており、日本各地に「蘆屋塚」「道満塚」「道満井」の類が数多く残っている。 智徳法師(ちとくほうし)(?-?) 播磨国の僧でありながら陰陽道の呪法や占術を用いて金を稼いだ民間の陰陽師。『今昔物語』の、海賊に襲われた船主に同情して陰陽の術を用いて船荷を取り戻した話や、陰陽道を身につけて得意になり、噂に聞く安倍晴明の実力を確かめようと自分の式神を連れて呪術対決に臨んだが、逆に安倍晴明に式神たちを隠されてしまい、陳謝して自分の式神を返してもらうというエピソードで知られる。人物像や環境設定が酷似しているため、蘆谷道満と同一人物ではないかとの説が有力である。 鬼一法眼(きいちほうげん)(おそらく平安後期) 京の一条堀川に住んでいた伝説の陰陽師。兵法家でもあり、源義経に剣術を教えたことでも有名。剣の大家、京八流の創始者でもある。
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