丹波雅忠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/01 08:48 UTC 版)
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丹波雅忠(菊池容斎『前賢故実』)
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時代 | 平安時代中期 - 後期 |
生誕 | 治安元年(1021年) |
死没 | 寛治2年2月18日(1088年3月13日) |
別名 | 日本扁鵲 |
官位 | 正四位下・主税頭 |
主君 | 後一条天皇→後朱雀天皇→後冷泉天皇→後三条天皇→白河天皇 |
氏族 | 丹波氏 |
父母 | 父:丹波忠明 |
子 | 重康 養子:忠康 |
丹波 雅忠(たんば の まさただ)は、平安時代中期から後期にかけての貴族・医師。丹波康頼の曽孫。名医と謳われた典薬頭・丹波忠明の子。官位は正四位下・主税頭。
経歴
医得業生から長元7年(1034年)に医道課試に及第し、長元8年(1035年)権医博士に任ぜられる。
備後介を務めた後、永承2年(1047年)丹波介[1]と地方官も兼任した。永承7年(1052年)後冷泉天皇の病に対して薬による治療を行って従四位下・侍医に叙任される。天喜5年(1057年)典薬頭[2]・右衛門佐に補任。関白・藤原頼通の病を快癒させたことから、その推挙を受けて康平2年(1059年)施薬院使に任ぜられた。
医師としての名声は日本国外へも伝わり、日本扁鵲とも呼ばれたという。承暦4年(1080年)には高麗王・文宗が悪瘡を病んだことから、大宰府を通じて高麗に雅忠を招聘しようとしたが、高麗側の儀礼に不十分な点があることを理由として、朝廷は派遣を断っている(医師招請事件)。
応徳2年(1085年)主税頭正四位下兼侍医丹波介に至る[1]。寛治2年(1088年)2月18日卒去。享年68。
著作
- 『医略抄』…曾祖父・康頼の『医心方』を抄録。
- 『医心方拾遺』
系譜
- 父:丹波忠明
- 母:不詳
- 妻:不詳
- 男子:丹波重康
- 養子:丹波忠康(1053-1106) - 実は上野守長基の子
脚注
参考文献
- 丹波雅忠のページへのリンク