平安時代まで
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大山信仰が始まった時期は不明だが、発掘により、縄文時代後期中葉の加曽利B式土器片や、古墳時代の土師器片・須恵器片、平安時代の経塚壺・経筒などが発見されており、信仰開始の時期はかなり古い時代にまでさかのぼることができると推定される。ただし、縄文土器等については、発掘担当代表者が江戸時代初めに持ち込まれたものと断定している。 『万葉集』の東歌で、大山は「相模峰の雄峰見過ぐし忘れ来る妹が名呼びて吾を哭し泣くな」と詠われた。 10世紀前期の『延喜式』神名帳には、相模国十三座の一つとして、「阿夫利神社」(アフリノカミノヤシロ)の記載があり、神名帳の原本である神祇官の台帳が天平年間の完成とされることから、8世紀前半に阿夫利神社が創建されたとすることもできる。つまり、当時の祭神名が「アフリノカミ」で、古墳時代以降の山岳信仰で大山そのものへの広域の信仰によるものと考えられる。古代の仏教的山岳修行者が清浄な山内に修行場所を開拓するに従い山頂の磐座が「石尊権現」として祀られるようになったと考えられる。大山で大山祇神が主祭神となったのは明治以降の近代「阿夫利神社」(アフリジンジャ)が成立してからである。 古代に不動明王像を本尊とする大山寺が建立され、大山山頂の磐座への「石尊権現」信仰と大山全体を不動明王の霊場とする信仰とが一体化していったとされる。なお、『續群書類從』第27輯下釋家部の『大山寺縁起(真名本)』(内閣文庫本ほかでは一般に『大山縁起』)には、天平勝宝7年(755年)、東大寺初代別当の良弁僧正が自刻の木造不動明王像を本尊に大山寺を開創したとの記載がある。大山寺は、聖武天皇により国家安穏を祈願する勅願寺とされ、天平宝字5年(762年)には行基の命により、光増が不動明王像を製作して本堂に奉納したとされる。元慶2年(878年)の大地震と大火により大山寺は焼失したが、元慶8年(884年)安然が再興したなどの伝承から、顕密系山岳寺院として栄えていったと考えられる。 平安時代の末に、大山は糟屋氏が支配する糟屋荘に編入されたが、久寿元年(1154年)12月に糟屋荘は安楽寿院に寄進された。その後、大山は藤原得子(ふじわらのなりこ。鳥羽法皇の皇后。美福門院)の領地となり、さらに、得子の子である暲子内親王(あきこないしんのう。八条院)の領地とされた。
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平安時代まで
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奈良時代から平安時代の記録は多くないが、弘仁14年(823年))に護命が山田寺に隠棲したこと(『続日本後紀』)と、治安3年(1023年)に藤原道長が山田寺を訪れて、堂内の「奇偉荘厳は言葉で言い尽くせないほどだ」と感嘆した(『扶桑略記』)ことから、少なくとも11世紀前半までは山田寺の伽藍は健在であったことがわかる。しかし発掘調査によれば、道長来訪から程なくして土砂崩れにより伽藍東側の回廊や宝蔵が埋没したと思われる。 『多武峰略記』に引く古記によれば、嘉保3年(1096年)に「多武峰寺(現在の談山神社)の鐘が小さいので山田寺の鐘と交換した」との記述があり、この頃までに多武峰寺の末寺になっていたと考えられる。
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