縁起とは? わかりやすく解説

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えん‐ぎ【縁起】

読み方:えんぎ

《「因縁生起」の略》

吉凶前触れ兆し前兆。「―がよい」

物事起こり起源由来

社寺宝物などの起源・沿革由来また、それを記した書画の類。「信貴山(しぎさん)―絵巻

仏語因縁によって万物生じ起こること。


縁起

読み方:エンギengi

物事吉凶前兆


縁起

読み方:エンギengi

(1)事物因縁によっておこること。
(2)寺社草創のいわれを中心に仏神霊験などをのべたもの。


縁起

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縁起(えんぎ、: pratītya-samutpāda, プラティーティヤ・サムトパーダ: paṭicca-samuppāda, パティッチャ・サムッパーダ)とは、他との関係が縁となって生起するということ[2][3][1]。全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指す[2]


注釈

  1. ^ 此縁性とは、「此れを縁とすること」という意味[3]

出典

  1. ^ a b 丸山勇 『ブッダの旅』〈岩波新書〉岩波書店、2007年4月20日、189-192頁。ISBN 978-4004310723 
  2. ^ a b c d e f g 中村元 『広説仏教語大辞典』 上、東京書籍、2001年6月、137頁。 
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 中村元ほか(編) 『岩波仏教辞典』(2版)岩波書店、2002年10月、95-96頁。 
  4. ^ 『今日から役立つ仏教』ナツメ社53頁
  5. ^ 業感縁起(ごうかんえんぎ)とは - コトバンク”. 朝日新聞社. 2017年7月25日閲覧。
  6. ^ 馬場紀寿「三世両重因果の成立 - 上座部大寺派の縁起支定義」『印度學佛教學研究』第51巻第2号、2003年3月20日、 834-832,、 NAID 110002707015
  7. ^ a b 中村元 『龍樹』 講談社〈講談社学術文庫〉、pp194-196。
  8. ^ 「頼耶縁起」 - ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、2014 Britannica Japan。
  9. ^ 新村出(編) 『広辞苑』(第三版)岩波書店、1986年10月、274頁。 


「縁起」の続きの解説一覧

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梨田昌孝」の記事における「縁起」の解説

過去近鉄日本ハム監督時代いずれも2年目優勝しており「就任2年目優勝する」という縁起がある。要因として就任1年目選手の特徴スキルなど選手たち何が出来るか把握する事に務め、とにかく選手いろんな場面で試し検証する選手起用をし、どんな戦い方が一番適している方針決めと言う特徴がある。しかし、楽天2年目ではこの「縁起」は実現しなかった。

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矢宮神社」の記事における「縁起」の解説

紀伊国海土郡雑賀荘総社矢宮大明神縁起之事此の地は雑鬱茂たる深林也或時其のの中より夜々光を放ち里人大い怪しみ光について是を探るに白羽鏑矢有之爰に於いて里人其神なる事を知り恐れ畏み則ち仮殿造り巫女をして深湯立たせしむ神即ち巫女に憑託せ給ひ吾は是れ軍神此のに社を建て永く尊崇斎祭(いやまいまつら)ば吾又此の土を護り幸ひすべしと是即矢宮と申奉る縁なり。(社記

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御殿龍神」の記事における「縁起」の解説

元々この辺り一帯には、尾張徳川家の別荘1つである「小牧御殿」があり、祠のある場所に御殿建てられ当時から、の木(イヌマキ)があった。しかしこのの木は、昭和25年1950年9月台風倒壊。それを嘆いた徳川義親が翌昭和26年1951年)、この場所2本の木を植えたその後義直遺業を親う近隣住民往時偲ぶため、昭和33年1958年)に、この地に祠を建立した

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大舟寺」の記事における「縁起」の解説

1677年延宝5年)、現在の所に創立

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常光寺 (加古川市)」の記事における「縁起」の解説

常光寺は、1336年建武3年足利尊氏法燈国師より数えて4代目の別円光国師奉じて開山した。七堂伽藍三重宝塔備え大い栄えたが、その後火災遭い衰退した永正年間赤松義村によって再興され平原祥光寺号した天正年間兵火のため焼失したが、永禄年間、賀古氏入道寿謙が再興のため当時領主である池田輝政願い出て一宇殿堂建立して常光寺号した1648年慶安元年)、赤松氏後裔である南室禅師(1591(天正19年)- 1671(寛文11年))が、姫路慶雲寺より招請され中興開山の祖とした。この時山号を「平原山」から「天徳山」に改めた間もなく、寺宇、仏像寺宝など焼失したが、万治年間、南室和尚により再建された。その後五世厳洞和尚十二世鉄牛和尚復興に力を尽くし禅堂、部家、食堂などの諸堂建設され三十名門外の雲水修行道場となった

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讃甘神社」の記事における「縁起」の解説

創建不詳であるが現在地遷し奉られたのは天正年間1573年 - 1592年)で、旧讃甘郷中総鎮守として荒大明神称していた。明治6年1873年2月郷社に列格されたときに現在の神社名改称した宮本武蔵幼年時に神社の太鼓をうつ二本の撥の音が左右均等であることに感嘆したと云われ、この記憶後年二天一流発想繋がったとされる

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應聖寺」の記事における「縁起」の解説

白雉年間650年頃)に法道仙人によって開基されたと伝わる。鎌倉時代中期に祐運大徳によって中興され、南北朝時代には赤松則祐祈願所として繁栄した江戸時代には姫路城主の参詣仰ぎ徳川将軍家三代姫路城歴代位牌安置している。

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広済寺 (千葉県横芝光町)」の記事における「縁起」の解説

鎌倉時代初期薩摩僧侶石屋和尚諸国遊行途中虫生の里に立寄り辻堂仮の宿とした時、「妙西信女」という17歳新霊地獄の鬼どもに攻めたてられる様子目の当たりにし地獄絵さながらすさまじさ驚いたという。そして翌日娘の墓参来た新霊父母であるこ地の領主椎名安芸夫婦この様子を話したところ、領主椎名安芸守は自分の悪行悔い娘の菩提を弔うため寺を建立し石屋和尚開山することとなった建久7年1196年)のこととされ、娘の法名「妙西」を「広西」と改め慈士山地広西(現在は済)寺と称したとのことである。 ところがその年の夏虫生の里に突然雷雨起こり開山した寺の庭に、青鬼黒鬼赤鬼白鬼・祖老母の面などが天から降って来て青鬼白鬼の面は失われたものの、石屋和尚残りの面を寺内止め置いたとされる一方当時鎌倉に住む、運慶湛慶安阿弥3人仏師が、ある夜和尚夫婦辻堂塔婆立ててこもっていたところ、いろいろな鬼が出て来て、亡者攻めたてているのを、菩薩ご覧になられている。」という同じ夢見て夢の舞台である虫生の里を尋ねることになった。そして3人仏師は虫生に至り石屋和尚逢って話を聞いて閻魔大王倶生神老母菩薩などの面を彫り献納した旨を申し出、面が整ったという。 3人仏師は自ら作ったを顔当て石屋和尚もまた面を当てすさまじい舞を舞って集まった壇徒一同に披露した。ちょうどその日はお盆7月16日であった。そしてその後地獄の様菩薩救いを示す鬼来迎毎年7月16日 (旧暦)行われるようになったと言われている。

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千福寺 (四日市市)」の記事における「縁起」の解説

天平8年736年聖武天皇勅命により、行基菩薩長松永代寺建立されたが(現在の三重県立四日市商業高等学校付近)、のち焼失した伝えられるその後 鎌倉時代後期京都東福寺の虎関国師伽藍復興発願され、永代寺寺領であった現在地石仏毘沙門天奉祀復興する明治維新廃仏毀釈の折、伊勢国密厳寺の定峯和尚が、当山現在の本尊仏である、毘沙門天を奉持した昭和33年1958年)に本尊仏の縁により、毘沙門天総本山である信貴山朝護孫子寺四日市別院として再興する

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子福観音」の記事における「縁起」の解説

鎌倉時代に、玉野川畦に住んでいた小比企という漁夫が、子がいないので高倉山上の毘沙門天子授け祈った。すると、お告げがあり、玉野川北岸に近い葦池で網を引いていると、馬頭観音像がその網にかかった。小比企その霊像を自宅安置していると、程なく妻が身ごもった。そこで一宇の堂を建て、この霊像安置したという。

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風伯神社」の記事における「縁起」の解説

三代実録には、清和天皇貞観17年3月29日、授伊予国六位上風伯神とある。社伝によると、景行天皇皇子武国凝別命伊勢神宮より伊与へご分霊奉じた際、海上守護のために、龍田の神(風神)を奉祀したことによると伝えられている龍田神社は、のちの官幣大社であり当時朝廷崇敬深かった)。当初は同社奉祀されていたが、のちに別宮とされた。その後西条藩主一柳公は陣屋鬼門除けとして現在地奉遷した。 境内において地方物産の市が四月朔日七月朔日盛大に開かれたことにより、当地名が朔日市名付けられたという。

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仏教哲学」の記事における「縁起」の解説

さらに釈迦は、教えとして縁起と呼ばれる存在あり方説明をした。この縁起の考えでは、すべてのものの存在は、孤立するものではなく関係性の中で存在現象として現れていること(サンカーラ)を説明した。これは、単に自らが縁起によって存在しているというだけではなく回りすべての存在現象も、同様に関係性の上に現象していると言うそのために我というものはないという点で、ウパニシャッド説明否定した。これを諸法無我という。

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林昌寺 (春日井市外之原町)」の記事における「縁起」の解説

詳細は「黒白の狐-林昌寺縁記を参照 廻間住人昌則は、毎日山に入って、兎やなどを狩ることを仕事にしていた。ある日いつものように弓矢を持って山深くに入ったが、夜が更けたので帰ることにした。だが、空が暗くなるにつれ、道に迷ってしまった。そこで、夜が明けるのを待って里まで下ろう月 出を待つうちに寝てしまった。あたりにぱっと光が差したので目を覚ますと、赤い球近づいてくるか兎の仕業思い弓矢を打つと光が消えていき、火の玉は、2つ割れた近づく黒白の狐が、口に矢を含み何かを言おうとしていた。昌則は、「この臥牛山主であったか、知らずとはいえ申し訳ないことを」と思い礼拝すると、の姿は、消えたその後に昌則が臥牛山山頂登るとその東隅に石室があり、そこには稲荷大明神立像先程の矢があった。昌則はこれを縁として自ら殺傷禁じ愛知郡稲葉村(現名古屋市内)龍雲寺住持、實鑑阿闍梨について得度し仏門入り臥牛山の虎敷(現外之原町)に一宇を建て薬師如来安置した

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来迎寺 (三田市)」の記事における「縁起」の解説

来迎寺(らいこうじ)」という寺名の由来は、実は、大変に古い。聖徳太子が、わが国初め仏教導入(十七条憲法)、法隆寺創建されたのが推古15年(607年)である。そのわずか39年後に大化の改新」(大化2年646年)という政変があり、この頃、国や郡の制度出来たその頃一国一国分寺、一郡に一来迎寺あり、とされ、宗派を問わず各地に来迎寺誕生したと言われる。現在も各地に来迎寺の名が残っている当・来迎寺もその頃のものかどうかは、確かな文献がないので不明だが、少なくとも原点を見る思いがするまた、寺には”山号”というものが必ずあるが、当山初めは天正山として役所届けたが、同じ年号があったため許可されず、天生山とし、いつしか天照山となった。 当・来迎寺は、もともと真言宗であったが、荒廃いちじるしく近隣三木市上の丸の雲龍寺(曹洞宗)の第六世、哉安慧大和尚が、来迎寺第二世、楞宗智白大和尚命じて来迎寺再建させ、さらに曹洞宗改宗し再出発させたのが、安永5年(1776年)と、上棟板に記されている。今から228年前である(徳川第10代家治、同第11代・家斉の頃) 。これが曹洞宗来迎寺としての本格的な始まり見てよい。 その後世代変わり第九世に至るまで改修もされず荒れたままであった。しかし、第十機外元峰大和尚が普任するや(大正14年)、様相一変する参道から山門上る石段、そして境内敷石などを全て御影石舗装完成本堂東側倉庫出来る。さらに昭和12年には、懸案開山堂(位牌堂)を新築円成し、衆目集めた。しかし、念願の本堂庫裡再建果たせず、50歳の若さで、昭和18年5月示寂した。 元峰大和尚二男にあたる第十一世雲外宣和尚が後を継ぐが、時、恰も第2次大戦のさなか、昭和18年学徒動員令により、駒澤大学を6ヶ月繰り上げ卒業となり、来迎寺住職辞令受けたまま、戦地の旧・満州(現・中国東北部)に出征する。幸い、昭和21年7月元気で帰山する。来迎寺には、戦時中昭和19年から同20年8月終戦時まで、尼崎市小学校の”学童疎開”などがあり、寺が荒れて雨漏り激しく、墓道も崩れたところが多く手の施しうもない状態にあった。 しかし、昭和35年頃から、檀信徒をはじめとする人たちから修復気運強まり参道および墓道の拡張舗装水道敷設などが成り、さらに昭和58年至って懸案本堂庫裡新築円成見たことは特筆される山門の下庭の一角白衣観音像を建立(平成元年9月)、信仰の輪も広げた現在の車社会即応し、寺や墓参り車で往復でき、墓水ま完備するという便利さ提供したのも、時代ニーズによく応えている。これら一連の仏績は、第十世元峰大和尚悲願継承実現させたもので、第十一世宣和時代(約60年)の画期的な改革といえる。かくて来迎寺大きく活性化檀信徒信仰一段と深めた平成14年長男第十二世宣外伸好和尚晋山結制修し、元宣和尚は東堂として現在に至っている。

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祇園神社 (神戸市兵庫区)」の記事における「縁起」の解説

869年貞観11年)、京で鴨川氾濫し疫病蔓延したとき、行疫神として名高い素戔嗚尊姫路広峯神社より北白川瓜生山東光寺勧請することとなったその時、広峯社の神輿が平野の地で一泊した地に社殿を建て、分霊崇め奉ったところが祇園神社創建の由来とされている素戔嗚尊仏教祇園精舎守護神とされている牛頭天王同一視されたため、祇園神社はまた天王社とも呼ばれた。広峯社から東光寺勧請された牛頭天王分霊は、のちに八坂の地に遷宮され「祇園感神院」(現在の八坂神社となった。ただし現在、八坂神社は広峯社を祇園神本社とする主張否定している。

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鍾馗」の記事における「縁起」の解説

鍾馗の縁起については諸説あるが、もともとは中国唐代実在した人物だとする以下の説話流布している。 ある時、唐の6代皇帝玄宗が瘧(おこり、マラリア)にかかり床に伏せた玄宗高熱のなかで夢を見る宮廷内で小鬼悪戯をしてまわるが、どこからともなく大鬼現れて小鬼難なく捕らえて食べてしまう玄宗大鬼正体尋ねると、「自分終南出身鍾馗武徳年間618年-626年)に官吏になるため科挙受験した落第しそのこと恥じて宮中自殺した。だが高祖皇帝自分手厚く葬ってくれたので、その恩に報いるためにやってきた」と告げた。 夢から覚めた玄宗は、病気治っていることに気付く。感じ入った玄宗著名な画家呉道玄命じ鍾馗絵姿描かせた。その絵は、玄宗が夢で見たそのままの姿だった。 玄宗時代から臣下鍾馗図を除夜下賜され邪気除けとして新年鍾馗図を門に貼る風習が行われていた記録がある。宋代になると年末大儺にも貼られるようになり、17世紀明代末期から清代初期になると端午の節句厄除けとして鍾馗図を家々に飾る風習生まれた鍾馗図は初期には呉道玄構図模倣主だったが、明代に『鍾馗全伝』などの小説流行する騎虎図や吉祥図など多様なバリエーションが生まれ悪疫除け風習とともに東アジア一帯伝播した。

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古宮八幡宮」の記事における「縁起」の解説

香春岳産出する宇佐神宮御神体銅鏡)として奉納していたことが縁となり、同神宮御祭神であった応神天皇神功皇后神霊勧請したことに始まとされる祭神としては豊比売命も共に祀られているが、豊比売命は近くに在る香春神社例祭時には香春神社下向し、例祭終わると再び古宮八幡宮に戻る。

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諏訪神社 (新宿区)」の記事における「縁起」の解説

弘仁年間810 - 824年)の創建伝えられ小野篁より大国主命・事代主命祀ったのがはじまりとされる松原神社命名されたが、徳川義直により諏訪神社改名かつては付近一帯が当神社にちなみ諏訪町(すわちょう)と呼ばれていたが、住居表示による町名変更により、地名として消滅した現在では諏訪通り諏訪町交差点などに名を残している。

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手児奈霊神堂」の記事における「縁起」の解説

今から[いつから?]1300年ほど前、真間の井亀井院)に水を汲みに行く一人女性がいた。名前は手児奈身なりそまつだったが、とても美しいと評された。多くの男性から結婚求められたが、「私のはいくつでも分けることはできますでも、私の体は一つしかありません。もし、私が誰かお嫁さんになれば、ほかの人不幸にしてしまいます。」となやみ、海に行く(当時は真間山の下は海だった)。そのころ日没になろうとしていた。「そうだ、あの太陽のように。」と思って海に身投げしてしまった。これを悲しんだ人たちは、手児奈霊神堂建てて祀った

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法伝寺」の記事における「縁起」の解説

法伝寺は、天文22年(1553)観竜上人によって創建法然上人によって開かれた阿弥陀如来本尊とする浄土宗寺院で、港区にある浄土宗大本山増上寺徳川家菩提寺)の末寺である。 また、行徳三十三観音巡りの第22番札所であり、行徳成田山参り出発地として栄えた時代には、菖蒲池等の景勝地として知られていた。 また過去には寺の土地明徳尋常小学校現在の南行徳小学校)の前身存在してた。その縁から、境内には明徳尋常小学校記念碑建立されている。 また、境内には死者生前善悪判定する閻魔大王とその判定のために死者の衣をはぐ奪衣婆だつえば)の石像白山権現非公開)がある。平成14年落慶した本堂及び観音堂には、日本画家松原公子による天井画奉納され有縁善男善女名号胎内納めた弥陀三尊聖観音二祖大師山高龍雲仏師作)が鎮座している。

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金剛寺 (五條市)」の記事における「縁起」の解説

金剛寺1173年承安3年)、平重盛により創建された。江戸時代初期から野原城主畠山義春菩提寺として復興し奈良朝末期光仁天皇皇后井上内親王(いがみないしんのう)と その子他戸親王(おさべしんのう)の怨霊祀る宮寺として さらには仁和寺末の中本寺として栄えた1822年文政5年当時の本常和尚が原料としてボタン植えたのがきっかけとしてボタン寺として親しまれ毎年4月下旬から5月上旬にかけてボタン祭り開催される期間中境内吉野川借景とする 約2,000平方メートルボタン園では100種類1,500株のボタンが咲く。また、秋には、キク咲き小菊まつりが開催される

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長福寺 (横浜市港北区綱島)」の記事における「縁起」の解説

寺伝によると、当地西国落武者綱島十八騎」というものがおり、その中一人児島賀典(後に改姓し佐々木姓)が出家し開山したと伝わる。

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妙顕寺 (戸田市)」の記事における「縁起」の解説

文永8年1271年10月武州新倉現在の埼玉県和光市一帯領有していた隅田(墨田)五郎時光の妻が難産により生命危ぶまれていたある夜時光が日信仰していた仏が夢枕に立ち、近々新倉付近を通るであろう高徳の僧にすがるべき旨のお告げもたらされた。時光らが待ち構えているところに通りかかったのが日である。日蓮前月龍口神奈川県藤沢市)において斬首辛うじて免れたが(龍ノ口法難)、佐渡へ配流決定し鎌倉街道護送される途上であった。 時光は早速、日蓮を館に招いて安産祈願請うたが、流人身分であるが故に許されなかったため、その場で清水汲んで墨を擦り小枝噛み砕いて筆として、懐紙安産護符書いて時光授与した時光護符を館に持ち帰ると、妻はそれまで苦痛消え無事に男子徳丸)を出産したこれにより時光日蓮帰依することとなる。流罪解かれた日蓮鎌倉経て身延山隠棲するが、弘安2年1279年10月時光徳丸父子身延山日蓮訪ね出家して直弟子となり、それぞれ徳・日堅の法号授与された。翌年父子領地新倉戻り後に自邸改め一寺建立した。これが長誓山妙顕寺であり、山号・寺号共に日蓮よるものとされる開山は、後に六老僧一人に指名されることになる佐渡阿闍梨日向民部阿闍梨安立院とも称される)であり、日徳・日堅がそれぞれ第二世・第三世の住職務めた後に妙顕寺戦火により焼失し至徳元年1384年)に現在の新曽の地に移転して再建された。そして、妙顕寺が元々存在した跡地には、現在、旧末寺長光妙典寺存在し妙顕寺とほぼ同様の縁起を伝えている。なお、妙顕寺妙典寺並び廃寺となったがかつて下新倉には長妙山妙蓮寺があり、これら三寺院寺号山号に因んで「三妙三長の道場」と称され時期もあったといわれている。

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高照寺 (養父市)」の記事における「縁起」の解説

高照寺寺誌によると、720年養老4年行基により開基されたと云われる。承和年間泰範住職勤め空海許しのもと寺号栂尾山神護寺とした。その後山の西北の庵坂に移り栂尾蓮花寺改称し一時禅宗となった1655年明暦元年観音堂屋敷移り寺号現在の栂尾山高照寺と改めた1819年文政2年現在地移転した

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圓勝院」の記事における「縁起」の解説

1530年享禄3年)に圓海律師により中興1689年元禄2年)に火災焼失し鹿骨鹿島神社東南の地から当地移転明治入り神仏分離廃仏棄釈により、1870年明治3年)に鹿骨鹿島神社の別当を辞す1874年明治7年)、観音寺、乗勝院、薬王寺合併し圓勝院称して今日に至る。 本堂には大日如来化身である阿弥陀如来祀りその他に不動明王十一面観音吉祥天祀っている。また、国事殉難者祀った和の碑を境内建立している。 1973年昭和48年)に弘法大師生誕1200年記念事業として、また、1992年平成4年)に興教大師850年御遠忌記念事業として、それぞれ本堂改修が行われている。

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明鏡寺」の記事における「縁起」の解説

建長寺14世頑石曇生が鎌倉幕府6代将軍宗尊親王菩提を弔うためにその念持仏祀るために玉堂曇球を開山として創建した寺号念持仏に鏡が埋め込まれていたことに因んでいる。理由不明であるが、念持仏は寺に安置されることはなかった。貞治7年1368年)に安置され聖観音菩薩は病を治す薬草霊夢教えたり雨ごい応えるなどの霊験顕したため眼明観音と呼ばれて尊崇された。この観音像制作年代明らかな貴重なであることから岐阜県指定文化財となっている。観音像安置されている観音堂伝承では観音菩薩同年建立されとされるが、実際は室町時代後期建てられたとみられている茅葺寄棟造で、希少な禅宗様建築であるとして昭和52年1977年)に国の重要文化財指定された戦国時代には戦禍巻き込まれ衰微したが、江戸時代寛永年間愚堂東寔再興し臨済宗妙心寺派となった。 ほかに、不動堂大師堂などの堂宇がある。

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賀茂神社 (うきは市)」の記事における「縁起」の解説

当社の行直大宮司慶安4年1651年)に誌した旧記には、 「賀茂大神最初にこの地天降り鎮座され、神武天皇が日向か大和御東遷のみぎり、宇佐から山北来られ賀茂大神八咫烏やたがらすとなって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇賀茂大神奉祀する」 と述べている。 境内では縄文土器石器群集石棺群などが出土している事か鑑みこの旧記有る真実伝えているものと考えられる賀茂神社社家初代は、武内宿禰たけうちのすくね)(孝元天皇曾孫19世 波多臣広庭(はたのおみひろにわ)の後裔波多次郎救家の嫡男 久家和州 としている。(熊懐氏参照

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持明院 (広島市)」の記事における「縁起」の解説

文禄2年1593年)に秀栄和尚が毛利公より寺領賜り旧・木挽町(現・中島町平和公園前)に開山。 「木挽町」は、戦前、「材木町」「天神町」という町と並び現在の平和公園前・平和大通りあたりにあった。その町名が表すようにこの界隈戦前木材問屋材木店が数多く商いをしていた。 また、現在の土橋堺町界隈には多くの商店問屋もあり、県北瀬戸内海から多くの材木商品が船によって搬入搬出され、当時は広島物流拠点でだった。 そのため、持明院海上交通安全や商売繁盛家内安全諸願成就などの祈願所として当時鎮守金毘羅大権現ならびに歓喜天」が多くの篤い信仰得ていたそうで、遠く周防まで及んでいた。 移転前は爆心地から500mほどの場所にあったため、原爆投下により全て焼失兵役より復員してきた当時住職檀信徒協力得て戦後まもなくに同場所に本堂再建し復興しかしながら昭和42年1967年)、市街地都市開発などにより、復興遂げた都会の喧騒から、より閑静な信仰の場求め現在の地(東区戸坂)へ移転した

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称念寺 (千葉県長南町)」の記事における「縁起」の解説

寺伝によれば徳治2年1307年遊行2代他阿真教によって創建されたとされるが、一説によれば建治元年1275年)その師である一遍によって創建されたともいう。いずれにせよ江戸時代初期までは時宗属していたが、浄土宗の僧霊巌によって浄土宗改められ江戸幕府から朱印状与えられていた。本尊阿弥陀如来は「歯吹如来」(はぶきにょらい)などと称され信仰され江戸時代には出開帳が行われていた。 現在の本堂享保15年1730年)に完成したもので千葉県有形文化財指定されている。欄間には、江戸時代房総の名彫刻師武志伊八良信由の晩年の傑作「龍三体の図」がある。

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黒嶋神宮」の記事における「縁起」の解説

木花咲耶姫神徳による安産祈願神社として長く尊崇を受けており、古くから地域及び安産守護の神として深く信仰集めている。詳し創建不明だが、大伯皇女逸話よりこの地祀られたと伝えられている事などから創祀古く奈良時代頃だと考えられている。(唐・新羅連合軍により滅ぼされ百済遺臣援軍要請に応じて白村江の戦い出兵した中大兄皇子妊娠中大田皇女随行した瀬戸内海の大伯の海(現在の燧灘)で産気づいた時に黒島立ち寄り安産祈願をしたところ、無事に大伯皇女出産したという古くからこの地域で伝えられている伝承。)南北朝時代には南朝勅願所されていた江戸時代には西条藩祈願所六社の一として高2石を寄進されている。

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延寿寺 (兵庫県市川町)」の記事における「縁起」の解説

延壽寺開基真性院観法日浄居士俗名堀太三郎開山は浄徳院日常上人俗名堀桓房)である。 堀家には往昔より地神称する1社頭有り霊験あらたか利益を受ける人多くあり。開山桓房上人10歳にして、病魔犯すところとなり、医薬尽くすが完治無し当時霊感素晴らしいとの評判高き滝野妙見寺開山恵城院日薫上人堀家に曲招し、ご祈祷1週間上人の曰「堀家地神高貴な武士児島高徳なり。法華経により世に出たし」この法説を聞いた実父三郎禅家念珠断ち日蓮宗帰依し地神児島大将軍として法華経により明治32年8月26日堀家勧請する。 この功徳によって開山桓房上人難病たちどころに平癒し、実父信仰児嶋大将軍ご守護導かれ厳寒30日間市川結氷破り寒水20数年及び大信力を得た桓房上人大正14年2月20日36歳にして上岩日啓大西桓城上人について祝髪し、同年5月1日児嶋大将軍木像開眼日蓮宗高徳院教会所設立先ず寺の中心となる一字一石の宝塔昭和5年建立次に信徒の足を伸ばせる所を7年建築す。昭和10年本堂庫裡完成10年5月2日入佛式、16年山門土塀完成し寺観整え昭和17年3月14日寺号公称高徳山延壽寺』として発足した

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粒坐天照神社」の記事における「縁起」の解説

人皇32代崇峻天皇・第33代推古天皇御代播磨国現在のたつの市伊福部連駁田彦という長者があり、人格者近く住民篤く信頼されていた。この彦の邸の裏によく茂った社があって、推古天皇2年正月1日にこの社の上に異様に輝くもの現われた。彦がこれを見つめていると忽然として容貌端麗な童子の姿となって曰く、「我は天照国照彦火明命の使である。天火明命幸御魂この地鎮まり、この土地人々守り給うて既に千年超ゆ。今汝の正直、誠実なるに感じ給い天降りまして神勅授けようとされている神勅奉戴新し神社造営し奉祀せよ。すなわち、今ここに種稲を授け給う。これを耕作すれば汝の田のみならずこの里全体に豊かに稔りこの土地永く栄えてゆくであろう。」と。ここで使者童児はまた忽にして昇天して去り、あとに種稲が残されていた。駁田彦がこの神勅尊み奉戴することを誓うと彦の田のみならず近くに一夜にして千頂もの水田ができた。駁田彦中心となって神社建立斉し、またこの水田授かった種稲を耕作すれば大豊作となり一粒万倍したという。以後この土地米粒意味するイイボ(粒)の郡と呼ばれ播磨穀倉地帯となった。駁田彦を始め入々は嬉び感謝し、この神社粒坐天照神社称して氏神崇め今日到っている。

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松峰山信仰遺跡群」の記事における「縁起」の解説

本尊不動明王(伝弘法大師作) 、前立二童子 末社薬師堂山の神宇賀神社倶利伽羅不動滝(この滝の下は祓川となっている)、岩谷十一面観音(伝弘法大師作)、正観音宣長作) 817年弘仁8年)に弘法大師がこの山を開基する。金銅阿弥陀観音像作って白銀で鏡を作り大円光と名付ける弘仁13年左大臣公社殿が造営される。857年天安元年3月地震のために全て埋没する891年寛平3年宇多天皇出羽郡司の小野良実の子小野良房を勅使として額を賜る。「いやまし光り時に埋まるる あらはれ照らせ峯の月」同年月山大権現と書いた真筆の額を奉納する寛平7年小野良房を奉行として社殿造成する以後数百年の間経歴はっきりしない1403年応永10年)、領主浅利氏社殿造成以後同家崇敬するところになる。慶安元年佐竹氏不動仏を信仰して本社仏堂の姿に変わる。寛政年間別当伝寿院僧侶土中より駅路の鈴発見する1801年享和元年藩主佐竹義和領地巡検際に、この鈴を献上する明治3年不動仏を廃する例祭には旧藩庁より弊物を送られる1873年明治6年)に村社になる。現在の祀神は月読大神である。本殿は昔、古田中村称したが、鎮座する山名松峰をとってその名とした。 本殿狛犬は、伊多波武助奉納したものである

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縁起(佐世姫物語)

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西方寺 (郡山市)」の記事における「縁起(佐世物語)」の解説

日和田城主安積左衛門繁にあやめ姫と言う娘がいた。ある時家来安積玄蕃時里があやめ姫を妻にしようとした許されず、怒った時里は姫を館から追い出して城主らを殺してしまった。姫は時里を嫌い、「死に変生き変り仇をうつであろうと言い残して沼に身を投げたその後、姫は大蛇となって里の一族滅ぼし、それでも怒り収まらずにこの地方を荒らした困った人々は毎年3月24日に娘を一人ずつ人身御供として差し出した。そして33人目の時、片平村太夫の娘が選ばれた太夫夫婦は娘の命を救うため、大和国長谷観音お参りし、そこで佐世姫に出会った佐世姫は太夫の娘の代わりに自分犠牲になる申し出て沼のほとりで大蛇待った。そして、大蛇現れる佐世姫は法華経唱えた。すると、大蛇は沼に戻り天女の姿になって蛇骨残して昇天した。残された蛇骨地蔵彫り祀ったところ、日和田の地に再び平和が訪れた

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恵比寿神社 (渋谷区)」の記事における「縁起」の解説

天津神社資料乏しく、縁起については不明である当時御祭神国常立神豊雲野神角杙神意富斗能地神伊邪那岐命伊邪那美命六柱大六天だいろくてん)、大六様(だいろくさま)、と呼ばれ親しまれていたと伝えられている

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白髭神社 (松戸市)」の記事における「縁起」の解説

良源天暦年間(947年957年)に近江から隅田川のほとりへ勧請した白髭大明神から、さらに元禄11年(1698年)この地分霊祀った伝えられる一方現地案内板によると、承平5年(935年)平将門伯父平国香殺し関八州平定する戦いで多くの武士亡くしたが、その慰霊怨霊封じ期して、茲恵大師良源912年-985年)が下総国日暮猿田彦命をお祀りしたのが始まりとされている

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長勝寺 (江戸川区)」の記事における「縁起」の解説

長勝寺開祖日信初め京都本圀寺14世・日助の弟子で、日蓮生れ立教開宗した安房小湊巡錫た際に江戸川区一之江に留まり、二間四面法華堂建立し多くの信者得たという。また法華堂千葉の大本山中山法華経寺宿泊所にもなったと伝わる。 日信一之江では妙覚寺9世・日住の弟子となり、長勝寺当初妙覚寺塔頭であった日信寛永2年1625年)に没した天和元年1681年長勝寺江戸幕府より国家安泰祈願所として許され寺社奉行より境内地年貢免除となる除地として譲り与えられたその後長勝寺元禄(1688-1704年)の頃から盛んになった鬼子母神信仰と共に祈祷所として隆盛し、多くの参詣者が訪れたという。

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法船寺」の記事における「縁起」の解説

1274年日蓮一向身延山赴くために酒匂川で来たものの、増水により渡ることができないでいると、翁に化身した地蔵菩薩導き地蔵堂に1泊し翌日無事に川を渡ったという。その時に堂守法華経の教えを受けて日蓮宗改宗し後に同所越中阿闍梨朗慶によって法船寺創建されたと伝えられている

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妙輪寺 (神奈川県大磯町)」の記事における「縁起」の解説

延文元年1356年この地真言寺主は鎌倉比ヶ谷妙本寺池上本門寺、両山の三世である大経阿闍梨日輪日蓮入滅の際、兄経一丸と共に稚児として仕えた亀王麻呂)と大い宗義論じたが、ついに信順して宗を改め寺を日蓮献上した。 翌延文2年1357年日輪は方駕を今のこの地進め四月開堂して説法をし、福聚山妙輪寺当山)と号した。また永聖跡寺格)として今日に至る。 開山日輪の母は妙朗尼であり、尼の父は印東領主印東次郎左衛門藤原祐照といい、母は工藤祐経の娘である。 当山日蓮聖人像は疱瘡身代り守護の像といわれた。現在も病気身代り守護の像として、祈願参詣が多い。徳川時代紀州家の姫が度々宿泊し、また江戸城奥女中参詣少なくなかった天保7年1836年9月5日夜九ツ時、北下横丁大工半七火元にて宿内大半焼失自他十一寺焼した。その後建物過ごし明治末に現在の本堂再建されものである古文書仏像一部は災をまぬがれて、特に当山二世ある日尚(真言寺主)に授けた開山日輪聖人真筆曼荼羅現存し日輪聖人像(江戸時代中期池上本門寺宝蔵より移した)も保存されている。 境内にある熊王稲荷は、大磯宿繁盛守護神として伝わる。

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頂峯院」の記事における「縁起」の解説

蘇我馬子阿子丸仙人開祖として建立したと言われる冠岳山頂熊野権現勧請されており、その別当寺だった天台宗の寺「興隆寺」が頂峯院前身寺院考えられており、本来は山岳信仰根ざしたであったと考えられる明治2年廃仏毀釈廃寺となったが、1983年冠岳西岳中腹移転して復興した。旧寺院跡は冠岳バス停近くにあり、仁王像狛犬などが残っている

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蓮泉寺」の記事における「縁起」の解説

蓮泉寺は、寛文11年(1671年)10月13日に、京都本法寺17世 日休上人弟子である、智境院日演上人により創立された。蓮泉寺建った場所は、山号寺号が残る真言宗寺院旧跡で、後藤八郎太夫田地となっていたが、八郎太夫一宗道場となることを有りがた思い残ら土地捧げた。日演上人本法寺17世 日休上人弟子であったことから元は本法寺であったが、門中融和のために、妙顕寺末寺となり、妙顕寺日空上人より承諾書類下された。日演上人は、時の姫路城松平大和守直矩公と懇親深く嫡子恵まれなかった直矩公に対し世継ぎ誕生為に当山鬼子母神信仰進め男子誕生という功徳によって、山林賜わったことが縁起録ならびに直矩公の位牌記されている。

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教信寺 (加古川市)」の記事における「縁起」の解説

教信寺称名念仏創始者である教信によって開基された。教信は、興福寺の僧であったが、奈良貴族仏教満足できず、各地放浪し現在の加古川市野口町にあった古駅家(かこのうまや)の北辺に庵を建て、ここを永住の地とした。阿弥陀仏称名明け暮れると共に西国街道旅人荷物運び農耕の手伝い、駅ヶ池の造成など行った教信入寂後、遺言により亡骸野に置かれた。体は鳥獣食われていたが、首から上無傷の状態であった。その説話を今に伝えるよう教信頭像である沙弥教信上人頭像作成され開山堂本尊とされている室町時代には堂宇13僧坊48数え大伽藍寺伝になっていたが、戦国時代毛利勢と羽柴秀吉勢との激戦の地となった1578年天正6年春に兵火により全焼し1642年寛永19年現在の寺領の姿にまで復興した幕末期に、再び本堂焼失したが、1880年明治13年書写山円教寺念仏道場移築し、現本堂とした。中世から江戸幕末まで浄土宗西山禅林寺派であったが、明治初期文明開化による廃仏毀釈廃藩置県政策衰退した仏教寺院から復興するご縁当山天台宗改宗した教信家族守り家族と共に古の里に生きた念仏としての生活は平安時代の『往生十因』などに記述され鎌倉時代念仏の僧である親鸞や一遍などの生活や信仰大きな影響を与へたと言われる。『改邪鈔』には親鸞の「常のご持言は」「われは賀古の教信沙弥の定なり」と親しく述べられた、との記述残され今も真宗信者参拝絶えないまた、沙弥との呼び掛けも僧の地位低さを表すのではなく非僧非俗としての念仏僧侶新たな生き方標榜する言葉として受け止められている。また、国宝一遍上人絵巻』には念仏三昧一遍随員と共に教信の墓に親しくお参りしたことが描かれ名高い

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足神神社」の記事における「縁起」の解説

鎌倉時代1250年代)、この地訪れた一人旅僧高熱重体陥ったとき、五代目守屋次郎手厚く看病し、僧は数日後全快した。この旅僧は、実は執権 北条時頼であった。時頼公は書状に「辰次郎こそ医術優れ仁徳人望厚き無類の庄屋である。高齢のため万一何かあれば、ゆかりの地にその徳を讃えて霊神として末永く祀るべし。」と記した。辰次郎亡き後人々は「足神霊神」として祀った。これが足神神社始まりといわれる

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清傳寺」の記事における「縁起」の解説

天平神護元年(765年)に泰澄禅師が自刻の十一面観音菩薩本尊として加賀白山山麓創建した伝わる。後鳥羽天皇時代戦禍により一時廃絶憂き目に遭うが、永享5年(1433年)に醍醐寺の成伝律師再興した北陸前田家領地となるとその祈願所として隆興し、富山藩成立するそれに伴い富山市長柄町へと移転した明治13年1880年)、火災遭いそれ以前記録失われる大正7年1918年)に富山での寺院維持困難になり高山市移転し、さらに本堂改築契機に昭和5年1930年)に現在地へ移転した。境内墓地地には大原騒動駕籠訴人として処刑され江名孫次郎の墓がある。

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忍法寺 (豊中市)」の記事における「縁起」の解説

1537年 本願寺 証如帰依した当地西岡与八が剃髪して念玄と法名し、天文6年3月有志協力して創建した当初穂積ノニシノテラと呼ばれたが、後に忍法寺の号がくだされたちなみに忍術とは関係がない

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熊野権現」の記事における「縁起」の解説

熊野権現とは熊野三山祭神である神々をいい、特に主祭神である家津美御子(けつみみこ)(スサノオ)・速玉(イザナギ)・牟須美(ふすび、むすび、または「結」とも表記)(イザナミ)のみを指して熊野三所権現熊野三所権現以外の神々含めて熊野十二所権現ともいう。 熊野三山熊野本宮大社熊野速玉大社熊野那智大社三社からなるが、当初は別個の展開をたどり、本宮崇神天皇代、速玉は景行天皇代(『扶桑略記』)、那智孝昭天皇代に裸行(裸形とも)が開基した(『熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記』)とするが定かではない正史において、神名確実に確認できるのは大同元年806年)の史料中にある記述で、天平神護2年766年)付で速玉神と熊野牟須美神それぞれ4戸の神封施入したとあるもので、これら2柱の神は今日新宮比定される熊野神邑(くまのしんそん)に一緒に祀られていたと見られる9世紀中ごろになると、単に熊野坐神(くまのにますかみ)とだけ呼ばれ神名明確でなかった本宮の神が家津美御子ないし証誠菩薩呼ばれるようになり、新宮の牟須美・速玉とともに家津美御子古くから熊野神であるとの伝承成立した(「熊野権現垂迹縁起」、『長寛勘文所収))。さらに、『中右記天仁2年1109年10月26日条にはこれら3柱の神名のみならず五所王子一万眷属十万金剛童子勧請十五所飛行夜叉米持(めいじ)金剛童子の名が挙げられ鳥羽院待賢門院参詣記(『長秋記所収長承3年2月1日条には『中右記』に挙げられていた十二所権現その本地仏が挙げられており、この頃までに熊野三所権現および熊野十二所権現確立していたことが分かる那智本宮・速玉とは性格異にし古くは滝篭行の聖地として知られ当初は結神主祭神としていたが、鎌倉時代初期成立した熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記』には熊野十二所権現祭祀に関する縁起譚記されており、この頃までに本宮・速玉の祭神をもあわせ祀っていたことが分かる以上のように、12世紀末までに三山互い祭神祀りあうことにより、三山一体化遂げたのである

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縁起

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 15:37 UTC 版)

蔵王権現」の記事における「縁起」の解説

蔵王権現は、役小角が、吉野金峯山修行中示現したという伝承がある。釈迦如来千手観音弥勒菩薩三尊合体したものとされ、今でも吉野山蔵王堂には互いにほとんど同じ姿をした三体蔵王権現像が並んで本尊として祀られている。 神仏習合教説では安閑天皇広国押建金日命)と同一の神格とされたため、明治時代の神仏分離際には、本山である金峯山寺以外の蔵王権現祀っていた神社では祭神安閑天皇としたところも多い。 また神道において、蔵王権現大己貴命少彦名命国常立尊日本武尊金山毘古命等と習合し同一視された。その為蔵王権現を祭る神社では、主に上記の5組神々らを祭神とするようになったまた、中世出雲大社祭神スサノオ鰐淵寺本尊蔵王権現同体されていた

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 03:33 UTC 版)

遍照院 (大館市)」の記事における「縁起」の解説

慶長5年1600年)に小場義成の父・小場義宗常陸国小田城城主となったが、小田城近くに遍照院長久寺があり、関ヶ原の戦いのあと、佐竹氏常陸国より秋田転封た際に随伴し小場義成に従って長久寺秋田の手形東新町六供屋敷一緒に秋田入りしたとされる慶長15年1610年)に小場義成久保田藩 大館城初代城代となり、それにともなって大館城の東(現在地)に新たに遍照院建立された。 当初本尊薬師如来であったが、戊辰戦争大館城攻城戦)のおりに、盛岡藩によって大館城落城すると同時に当寺堂宇本尊そのとき焼失しており、以来本尊不動明王としている。 なお、常陸国遍照院長久寺南北朝時代至徳3年1386年小場大炊之助義躬の開基とし、常陸国佐竹小場創建され、慶長3年1598年)に小田城移転して、現在も真言宗豊山派の寺として小田城址の北西常陸小田駅近く茨城県つくば市小田2716【地図】に現存している。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 05:30 UTC 版)

多宝寺 (日置市)」の記事における「縁起」の解説

この地支配者であった島津氏分家伊作家4代である島津久義が、伊集院(現・日置市伊集院にあった広済寺末寺として建立し当家菩提寺となった。しかし、明治2年廃仏毀釈廃寺となり、翌年歴代伊作家当主祭神とする石亀神社となった

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 10:14 UTC 版)

白鬚神社 (鶴ヶ島市)」の記事における「縁起」の解説

奈良時代創建伝えられ武蔵国開拓するためにこの地居住し高麗郡つくった高句麗人たち築いた神社とされている高句麗人は高麗郡26神社創建しそれぞれ鎮守として崇敬したという(高麗郡における高句麗人の創建した神社として日高市高麗神社が有名)。江戸時代頃までは和田高倉大六道(上新田)、小六道(中新田)、太田ヶ谷、針うり、脚折の7(現在全て鶴ヶ島市)の総鎮守として崇拝され明治時代以降は村社として存在していた。 2019年令和元年12月今上天皇御大典記念し鳥居を約300年ぶりに建て替えた

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/04 18:52 UTC 版)

お産の宮」の記事における「縁起」の解説

文政年間約百四十年前の大出水の時、木切倉部落の民家と共に後形もなく、おしくもお宮お札版木も、何にもかも流失して、天保八年(1837年)まで奇石怪物に、注連はり廻してお産安かれ祈った。それが引続き陽石に大注連張るとなった天保八年秋、壮麗な陰陽石お産の宮が再び建立されて同秋彼岸挙げて盛んな落成祝いが催されて、地元村人たちは親に手をひかれて社見に行った事や、其時の踊りや、角力筏流し行事などむかしがたり残っている其の後明治初年(1868年)に再びお宮流失して、草葺小屋のような五坪位なお宮とも思はれぬ祠が、椎木中に落葉に埋れ、苔むすままにおわした。 今から凡そ幾年か前、真方に、漢法医横山玄斉と云う先生居られた頃、「おう子供ひとりもいないのか」「それは気の毒だお産の宮詣りして、お授かりなさい」と笑顔で、よくお産の宮のお護附をそれぞれ帰ってお祭りなさいと下さったそうだ。 また少しでも眼病がと、思われたときは、「お前は生目神社早くお詣りして眼病治すことを、つとめなさい」と教えられたそうだ。 明治十四年(1881年)頃までは、当地風習妊娠したら必ず此のお産の宮安産祈願詣り川原小石二つ拾い帰り安産お守り札と共に神棚祀り産気付いて陣痛起ったなら、両掌に小石を、しっかりと握りしめ力いっぱいりきんだそうだ神の御利益てきめん安く生んだ、と昔のお婆さんたちには当たり前のことされていた。 この「お産の宮」と、近くにある渓谷の「三宮峡」と、偶然にも言葉の音の一致、しかも小林名所のためよろこばしいことである。 現在、幾度か洪水により流出しお産の宮は、現存せず地元有志地主によって再建計画持ち上がっている。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/12 13:52 UTC 版)

平安寺 (岐阜県池田町)」の記事における「縁起」の解説

平安時代末期応徳年間白河法皇谷汲山華厳寺参詣帰途病を得たが、弓削寺湯治をして快癒した。その謝恩のために大般若経弓削寺奉納し、それを納める平安殿を建立したのが当寺濫觴であるとされる平安寺と共に創建時天台宗であった後に衰微した江戸時代万治元年(1658年)に快伝和尚再建し臨済宗妙心寺派改め中興して現在に至る寛文7年(1667年)には大垣藩戸田氏信より黒印状付されている。江戸時代末期近在秋葉神社建てられていた二重の塔を境内移している。

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縁起

出典:『Wiktionary』 (2021/07/11 22:47 UTC 版)

この単語漢字
えん
常用漢字
き > ぎ
第三学年
音読み 音読み

発音

名詞

(えんぎ)

  1. 直接的原因)と間接的原因)と相じて、万有生起すること[1]
  2. 事物起源沿革由来[1]
  3. 神社仏閣草創沿革またはその霊験などを言い伝えること。また、その文書[1]
  4. しるしきざし兆候[1]
  5. 縁起直し」の[1]

語源

  • 「因」の略[2]

関連語

翻訳


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