えん‐ぎ【縁起】
縁起
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縁起(えんぎ、梵: pratītya-samutpāda, プラティーティヤ・サムトパーダ、巴: paṭicca-samuppāda, パティッチャ・サムッパーダ)とは、他との関係が縁となって生起するということ[2][3][1]。全ての現象は、原因や条件が相互に関係しあって成立しているものであって独立自存のものではなく、条件や原因がなくなれば結果も自ずからなくなるということを指す[2]。
注釈
出典
- ^ a b 丸山勇『ブッダの旅』岩波書店〈岩波新書〉、2007年4月20日、189-192頁。ISBN 978-4004310723。
- ^ a b c d e f g 中村元『広説仏教語大辞典』 上、東京書籍、2001年6月、137頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 中村元ほか(編)『岩波仏教辞典』(2版)岩波書店、2002年10月、95-96頁。
- ^ 『今日から役立つ仏教』ナツメ社53頁
- ^ Harvey, Peter. The Conditioned Co-arising of Mental and Bodily Processes within Life and Between Lives, in Steven M. Emmanuel (ed) (2013). "A Companion to Buddhist Philosophy", pp. 46-69. John Wiley & Sons.
- ^ Bhikkhu Anālayo 2020: “Dependent Arising”, Insight Journal,46:1–8
- ^ “業感縁起(ごうかんえんぎ)とは - コトバンク”. 朝日新聞社. 2017年7月25日閲覧。
- ^ 馬場紀寿「三世両重因果の成立 - 上座部大寺派の縁起支定義」『印度學佛教學研究』第51巻第2号、2003年3月20日、834-832,、NAID 110002707015。。
- ^ a b 中村元 『龍樹』 講談社〈講談社学術文庫〉、pp194-196。
- ^ 「頼耶縁起」 - ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典、2014 Britannica Japan。
- ^ 新村出(編)『広辞苑』(第三版)岩波書店、1986年10月、274頁。
縁起
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過去近鉄、日本ハム監督時代のいずれも2年目に優勝しており「就任2年目は優勝する」という縁起がある。要因として就任1年目は選手の特徴・スキルなど選手たちに何が出来るか把握する事に務め、とにかく選手をいろんな場面で試し検証する選手起用をし、どんな戦い方が一番適しているか方針を決めると言う特徴がある。しかし、楽天の2年目ではこの「縁起」は実現しなかった。
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縁起
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紀伊国海土郡雑賀荘総社矢宮大明神縁起之事 古此の地は雑樹鬱茂たる深林也或時其の林の中より夜々異光を放ち里人大いに怪しみ光について是を探るに白羽の鏑矢有之爰に於いて里人其神なる事を知り恐れ畏みて則ち仮殿を造り巫女をして深湯立たせしむ神即ち巫女に憑託せ給ひ吾は是れ軍神也此の森に社を建て永く尊崇斎祭(いやまいまつら)ば吾又此の土を護り幸ひすべしと是即矢宮と申奉る縁なり。(社記)
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元々この辺り一帯には、尾張徳川家の別荘の1つである「小牧御殿」があり、祠のある場所には御殿が建てられた当時から、槇の木(イヌマキ)があった。しかしこの槇の木は、昭和25年(1950年)9月の台風で倒壊。それを嘆いた徳川義親が翌昭和26年(1951年)、この場所に2本の槇の木を植えた。その後、義直の遺業を親う近隣住民が往時を偲ぶため、昭和33年(1958年)に、この地に祠を建立した。
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「常光寺 (加古川市)」の記事における「縁起」の解説
常光寺は、1336年(建武3年)足利尊氏が法燈国師より数えて4代目の別峯円光国師を奉じて開山した。七堂伽藍、三重の宝塔を備え、大いに栄えたが、その後、火災に遭い衰退した。永正年間に赤松義村によって再興され、平原山祥光寺と号した。天正年間、兵火のため焼失したが、永禄年間、賀古氏入道寿謙が再興のため当時の領主である池田輝政に願い出て、一宇の殿堂を建立して常光寺と号した。1648年(慶安元年)、赤松氏の後裔である南室禅師(1591(天正19年)- 1671(寛文11年))が、姫路の慶雲寺より招請され、中興開山の祖とした。この時、山号を「平原山」から「天徳山」に改めた。間もなく、寺宇、仏像、寺宝などを焼失したが、万治年間、南室和尚により再建された。その後、五世厳洞和尚、十二世鉄牛和尚が復興に力を尽くし、禅堂、部家、食堂などの諸堂が建設され、三十名門外の雲水の修行道場となった。
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創建は不詳であるが現在地に遷し奉られたのは天正年間(1573年 - 1592年)で、旧讃甘郷中の総鎮守として荒牧大明神と称していた。明治6年(1873年)2月に郷社に列格されたときに現在の神社名に改称した。 宮本武蔵が幼年の時に当神社の太鼓をうつ二本の撥の音が左右の均等であることに感嘆したと云われ、この記憶が後年の二天一流の発想に繋がったとされる。
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縁起
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白雉年間(650年頃)に法道仙人によって開基されたと伝わる。鎌倉時代中期に祐運大徳によって中興され、南北朝時代には赤松則祐の祈願所として繁栄した。江戸時代には姫路城主の参詣を仰ぎ、徳川将軍家三代と姫路城主歴代の位牌を安置している。
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「広済寺 (千葉県横芝光町)」の記事における「縁起」の解説
鎌倉時代の初期、薩摩の僧侶石屋和尚が諸国を遊行の途中虫生の里に立寄り、辻堂を仮の宿とした時、「妙西信女」という17歳の新霊が地獄の鬼どもに攻めたてられる様子を目の当たりにし、地獄絵さながらのすさまじさに驚いたという。そして翌日娘の墓参に来た新霊の父母であるこの地の領主椎名安芸守夫婦にこの様子を話したところ、領主椎名安芸守は自分の悪行を悔い娘の菩提を弔うため寺を建立し、石屋和尚が開山することとなった。建久7年(1196年)のこととされ、娘の法名「妙西」を「広西」と改め慈士山地蔵院広西(現在は済)寺と称したとのことである。 ところがその年の夏虫生の里に突然雷雨が起こり、開山した寺の庭に、青鬼・黒鬼・赤鬼・白鬼・祖老母の面などが天から降って来て、青鬼と白鬼の面は失われたものの、石屋和尚は残りの面を寺内に止め置いたとされる。 一方、当時鎌倉に住む、運慶・湛慶・安阿弥の3人の仏師が、ある夜「和尚と夫婦が辻堂に塔婆を立ててこもっていたところ、いろいろな鬼が出て来て、亡者を攻めたてているのを、菩薩がご覧になられている。」という同じ夢を見て、夢の舞台である虫生の里を尋ねることになった。そして3人の仏師は虫生に至り、石屋和尚に逢って話を聞いて、閻魔大王、倶生神、老母、菩薩などの面を彫り献納したい旨を申し出、面が整ったという。 3人の仏師は自ら作った面を顔に当て、石屋和尚もまた面を当てすさまじい舞を舞って、集まった壇徒一同に披露した。ちょうどその日はお盆の7月16日であった。そしてその後も地獄の様、菩薩の救いを示す鬼来迎は毎年7月16日 (旧暦)に行われるようになったと言われている。
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「千福寺 (四日市市)」の記事における「縁起」の解説
天平8年(736年)聖武天皇の勅命により、行基菩薩が長松山永代寺が建立されたが(現在の三重県立四日市商業高等学校付近)、のち焼失したと伝えられる。その後 鎌倉時代後期、京都東福寺の虎関国師が伽藍復興を発願され、永代寺寺領内であった現在地に石仏の毘沙門天を奉祀し復興する。 明治維新の廃仏毀釈の折、伊勢国密厳寺の定峯和尚が、当山へ現在の本尊仏である、毘沙門天を奉持した。昭和33年(1958年)に本尊仏の縁により、毘沙門天の総本山である信貴山朝護孫子寺の四日市別院として再興する。
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縁起
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鎌倉時代に、玉野川畦に住んでいた小比企という漁夫が、子がいないので高倉山上の毘沙門天に子授けを祈った。すると、お告げがあり、玉野川の北岸に近い葦池で網を引いていると、馬頭観音像がその網にかかった。小比企はその霊像を自宅に安置していると、程なく妻が身ごもった。そこで一宇の堂を建て、この霊像を安置したという。
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縁起
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三代実録には、清和天皇貞観17年3月29日、授伊予国六位上風伯神とある。社伝によると、景行天皇の皇子・武国凝別命が伊勢神宮より伊与へご分霊を奉じた際、海上守護のために、龍田の神(風神)を奉祀したことによると伝えられている(龍田神社は、のちの官幣大社であり当時、朝廷の崇敬も深かった)。当初は、同社に奉祀されていたが、のちに別宮とされた。その後、西条藩主・一柳公は陣屋の鬼門除けとして現在地に奉遷した。 境内において地方物産の市が四月朔日、七月朔日に盛大に開かれたことにより、当地名が朔日市と名付けられたという。
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縁起
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さらに釈迦は、教えとして縁起と呼ばれる、存在のあり方の説明をした。この縁起の考えでは、すべてのものの存在は、孤立するものではなく、関係性の中で存在現象として現れていること(サンカーラ)を説明した。これは、単に自らが縁起によって存在しているというだけではなく、回りのすべての存在現象も、同様に関係性の上に現象していると言う。そのために、我というものはないという点で、ウパニシャッドの説明を否定した。これを諸法無我という。
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「林昌寺 (春日井市外之原町)」の記事における「縁起」の解説
詳細は「黒白の狐-林昌寺縁記」を参照 廻間の住人、林昌則は、毎日山に入って、兎や狐などを狩ることを仕事にしていた。ある日いつものように弓矢を持って山深くに入ったが、夜が更けたので帰ることにした。だが、空が暗くなるにつれ、道に迷ってしまった。そこで、夜が明けるのを待って里まで下ろうと月 出を待つうちに寝てしまった。あたりにぱっと光が差したので目を覚ますと、赤い球が近づいてくる。狐か兎の仕業と思い弓矢を打つと光が消えていき、火の玉は、2つに割れた。近づくと黒白の狐が、口に矢を含み何かを言おうとしていた。昌則は、「この狐は臥牛山の主であったか、知らずとはいえ申し訳ないことを」と思い礼拝すると、狐の姿は、消えた。その後に昌則が臥牛山山頂に登るとその東隅に石室があり、そこには稲荷大明神の立像と先程の矢があった。昌則はこれを縁として自ら殺傷を禁じ、愛知郡稲葉村(現名古屋市内)龍雲寺住持、實鑑阿闍梨について得度し仏門に入り臥牛山の虎敷(現外之原町)に一宇を建て薬師如来を安置した。
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縁起
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「来迎寺(らいこうじ)」という寺名の由来は、実は、大変に古い。聖徳太子が、わが国に初めて仏教を導入(十七条憲法)、法隆寺を創建されたのが推古15年(607年)である。そのわずか39年後に「大化の改新」(大化2年=646年)という政変があり、この頃、国や郡の制度が出来た。 その頃、一国に一国分寺、一郡に一来迎寺あり、とされ、宗派を問わず各地に来迎寺が誕生したと言われる。現在も各地に来迎寺の名が残っている。当・来迎寺もその頃のものかどうかは、確かな文献がないので不明だが、少なくとも原点を見る思いがする。 また、寺には”山号”というものが必ずあるが、当山も初めは天正山として役所に届けたが、同じ年号があったため許可されず、天生山とし、いつしか天照山となった。 当・来迎寺は、もともと真言宗であったが、荒廃いちじるしく、近隣の三木市上の丸の雲龍寺(曹洞宗)の第六世、哉安慧善大和尚が、来迎寺第二世、楞宗智白大和尚に命じて来迎寺を再建させ、さらに曹洞宗に改宗して再出発させたのが、安永5年(1776年)と、上棟板に記されている。今から228年前である(徳川第10代・家治、同第11代・家斉の頃) 。これが曹洞宗・来迎寺としての本格的な始まりと見てよい。 その後、世代は変わり、第九世に至るまで改修もされず荒れたままであった。しかし、第十世機外元峰大和尚が普任するや(大正14年)、様相は一変する。参道から山門に上る石段、そして境内の敷石などを全て御影石で舗装完成、本堂の東側に倉庫、蔵が出来る。さらに昭和12年には、懸案の開山堂(位牌堂)を新築円成し、衆目を集めた。しかし、念願の本堂、庫裡の再建を果たせず、50歳の若さで、昭和18年5月、示寂した。 元峰大和尚の二男にあたる第十一世雲外元宣和尚が後を継ぐが、時、恰も第2次大戦のさなか、昭和18年の学徒動員令により、駒澤大学を6ヶ月繰り上げ卒業となり、来迎寺住職の辞令を受けたまま、戦地の旧・満州(現・中国東北部)に出征する。幸い、昭和21年7月、元気で帰山する。来迎寺には、戦時中の昭和19年から同20年8月の終戦時まで、尼崎市の小学校の”学童疎開”などがあり、寺が荒れて雨漏りも激しく、墓道も崩れたところが多く手の施しようもない状態にあった。 しかし、昭和35年頃から、檀信徒をはじめとする人たちから修復の気運が強まり、参道および墓道の拡張、舗装、水道敷設などが成り、さらに昭和58年に至って、懸案の本堂、庫裡の新築円成を見たことは特筆される。山門の下庭の一角に白衣観音像を建立(平成元年9月)、信仰の輪も広げた。現在の車社会に即応し、寺や墓参りが車で往復でき、墓水まで完備するという便利さを提供したのも、時代のニーズによく応えている。これら一連の仏績は、第十世元峰大和尚の悲願を継承、実現させたもので、第十一世元宣和尚時代(約60年)の画期的な改革といえる。かくて来迎寺は大きく活性化、檀信徒の信仰を一段と深めた。 平成14年、長男の第十二世宣外伸好和尚が晋山、結制を修し、元宣和尚は東堂として現在に至っている。
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縁起
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「祇園神社 (神戸市兵庫区)」の記事における「縁起」の解説
869年(貞観11年)、京で鴨川が氾濫し疫病が蔓延したとき、行疫神として名高い素戔嗚尊を姫路の広峯神社より北白川瓜生山の東光寺に勧請することとなった。その時、広峯社の神輿が平野の地で一泊した地に社殿を建て、分霊を崇め奉ったところが祇園神社創建の由来とされている。素戔嗚尊は仏教で祇園精舎の守護神とされている牛頭天王と同一視されたため、祇園神社はまた天王社とも呼ばれた。広峯社から東光寺に勧請された牛頭天王の分霊は、のちに八坂の地に遷宮され「祇園感神院」(現在の八坂神社)となった。ただし現在、八坂神社は広峯社を祇園神の本社とする主張を否定している。
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縁起
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鍾馗の縁起については諸説あるが、もともとは中国の唐代に実在した人物だとする以下の説話が流布している。 ある時、唐の6代皇帝玄宗が瘧(おこり、マラリア)にかかり床に伏せた。 玄宗は高熱のなかで夢を見る。宮廷内で小鬼が悪戯をしてまわるが、どこからともなく大鬼が現れて、小鬼を難なく捕らえて食べてしまう。玄宗が大鬼に正体を尋ねると、「自分は終南県出身の鍾馗。武徳年間(618年-626年)に官吏になるため科挙を受験したが落第し、そのことを恥じて宮中で自殺した。だが高祖皇帝は自分を手厚く葬ってくれたので、その恩に報いるためにやってきた」と告げた。 夢から覚めた玄宗は、病気が治っていることに気付く。感じ入った玄宗は著名な画家の呉道玄に命じ、鍾馗の絵姿を描かせた。その絵は、玄宗が夢で見たそのままの姿だった。 玄宗の時代から臣下は鍾馗図を除夜に下賜され、邪気除けとして新年に鍾馗図を門に貼る風習が行われていた記録がある。宋代になると年末の大儺にも貼られるようになり、17世紀の明代末期から清代初期になると端午の節句に厄除けとして鍾馗図を家々に飾る風習が生まれた。 鍾馗図は初期には呉道玄の構図の模倣が主だったが、明代に『鍾馗全伝』などの小説が流行すると騎虎図や吉祥図など多様なバリエーションが生まれ、悪疫除けの風習とともに東アジア一帯に伝播した。
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縁起
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香春岳で産出する銅を宇佐神宮の御神体(銅鏡)として奉納していたことが縁となり、同神宮の御祭神であった応神天皇、神功皇后の神霊を勧請したことに始まるとされる。 祭神としては豊比売命も共に祀られているが、豊比売命は近くに在る香春神社例祭の時には香春神社へ下向し、例祭が終わると再び古宮八幡宮に戻る。
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「諏訪神社 (新宿区)」の記事における「縁起」の解説
弘仁年間(810 - 824年)の創建と伝えられ、小野篁により大国主命・事代主命を祀ったのがはじまりとされる。松原神社と命名されたが、徳川義直により諏訪神社と改名。かつては付近一帯が当神社にちなみ諏訪町(すわちょう)と呼ばれていたが、住居表示による町名変更により、地名としては消滅した。現在では諏訪通りや諏訪町交差点などに名を残している。
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今から[いつから?]1300年ほど前、真間の井(亀井院)に水を汲みに行く一人の女性がいた。名前は手児奈。身なりはそまつだったが、とても美しいと評された。多くの男性から結婚を求められたが、「私の心はいくつでも分けることはできます。でも、私の体は一つしかありません。もし、私が誰かのお嫁さんになれば、ほかの人を不幸にしてしまいます。」となやみ、海に行く(当時は真間山の下は海だった)。そのころ、日没になろうとしていた。「そうだ、あの太陽のように。」と思って海に身投げしてしまった。これを悲しんだ人たちは、手児奈霊神堂を建てて祀った。
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法伝寺は、天文22年(1553)観竜上人によって創建。法然上人によって開かれた阿弥陀如来を本尊とする浄土宗寺院で、港区芝にある浄土宗大本山増上寺(徳川家菩提寺)の末寺である。 また、行徳三十三観音巡りの第22番札所であり、行徳が成田山参りの出発地として栄えた時代には、菖蒲池等の景勝地として知られていた。 また過去には寺の土地に明徳尋常小学校(現在の南行徳小学校)の前身が存在してた。その縁から、境内には明徳尋常小学校の記念碑が建立されている。 また、境内には死者の生前の善悪を判定する閻魔大王とその判定のために死者の衣をはぐ奪衣婆(だつえば)の石像、白山権現(非公開)がある。平成14年に落慶した本堂及び観音堂には、日本画家の松原公子による天井画が奉納され、有縁善男善女の名号を胎内に納めた弥陀三尊、聖観音、二祖大師(山高龍雲仏師作)が鎮座している。
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金剛寺は1173年(承安3年)、平重盛により創建された。江戸時代初期から野原城主の畠山義春の菩提寺として復興し、奈良朝の末期、 光仁天皇の皇后、井上内親王(いがみないしんのう)と その子の他戸親王(おさべしんのう)の怨霊を祀る宮寺として さらには仁和寺直末の中本寺として栄えた。1822年(文政5年)当時の本常和尚が薬の原料としてボタンを植えたのがきっかけとして、ボタン寺として親しまれ、 毎年4月下旬から5月上旬にかけてボタン祭りが開催される。期間中、境内の吉野川を借景とする 約2,000平方メートルのボタン園では100種類1,500株のボタンが咲く。また、秋には、キクが咲き、小菊まつりが開催される。
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「長福寺 (横浜市港北区綱島)」の記事における「縁起」の解説
寺伝によると、当地に西国の落武者「綱島十八騎」というものがおり、その中の一人、児島賀典(後に改姓し佐々木姓)が出家し開山したと伝わる。
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縁起
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文永8年(1271年)10月、武州新倉(現在の埼玉県和光市)一帯を領有していた隅田(墨田)五郎時光の妻が難産により生命も危ぶまれていたある夜、時光が日々信仰していた仏が夢枕に立ち、近々新倉付近を通るであろう高徳の僧にすがるべき旨のお告げがもたらされた。時光らが待ち構えているところに通りかかったのが日蓮である。日蓮は前月に龍口(神奈川県藤沢市)において斬首を辛うじて免れたが(龍ノ口法難)、佐渡への配流が決定し、鎌倉街道を護送される途上であった。 時光は早速、日蓮を館に招いて安産祈願を請うたが、流人の身分であるが故に許されなかったため、その場で清水を汲んで墨を擦り、柳の小枝を噛み砕いて筆として、懐紙に安産の護符を書いて時光に授与した。 時光が護符を館に持ち帰ると、妻はそれまでの苦痛が消え、無事に男子(徳丸)を出産した。これにより、時光は日蓮に帰依することとなる。流罪を解かれた日蓮は鎌倉を経て身延山に隠棲するが、弘安2年(1279年)10月に時光・徳丸父子は身延山に日蓮を訪ね、出家して直弟子となり、それぞれ日徳・日堅の法号を授与された。翌年に父子は領地新倉に戻り、後に自邸を改め一寺を建立した。これが長誓山妙顕寺であり、山号・寺号共に日蓮によるものとされる。開山は、後に六老僧の一人に指名されることになる佐渡阿闍梨日向(民部阿闍梨・安立院とも称される)であり、日徳・日堅がそれぞれ第二世・第三世の住職を務めた。 後に妙顕寺は戦火により焼失し、至徳元年(1384年)に現在の新曽の地に移転して再建された。そして、妙顕寺が元々存在した跡地には、現在、旧末寺の長光山妙典寺が存在し、妙顕寺とほぼ同様の縁起を伝えている。なお、妙顕寺・妙典寺と並び、廃寺となったがかつて下新倉には長妙山妙蓮寺があり、これら三寺院の寺号・山号に因んで「三妙三長の道場」と称された時期もあったといわれている。
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縁起
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高照寺寺誌によると、720年(養老4年)行基により開基されたと云われる。承和年間、泰範が住職を勤め、空海の許しのもと寺号を栂尾山神護寺とした。その後、栂山の西北の庵坂に移り、栂尾山蓮花寺と改称して一時禅宗となった。1655年(明暦元年)観音堂屋敷に移り、寺号を現在の栂尾山高照寺と改めた。1819年(文政2年)現在地に移転した。
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縁起
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1530年(享禄3年)に圓海律師により中興。1689年(元禄2年)に火災で焼失し、鹿骨鹿島神社東南の地から当地へ移転。明治に入り神仏分離、廃仏棄釈により、1870年(明治3年)に鹿骨鹿島神社の別当を辞す。1874年(明治7年)、観音寺、乗勝院、薬王寺を合併し、圓勝院と称して今日に至る。 本堂には大日如来の化身である阿弥陀如来を祀り、その他に不動明王や十一面観音、吉祥天を祀っている。また、国事殉難者を祀った平和の碑を境内に建立している。 1973年(昭和48年)に弘法大師生誕1200年記念事業として、また、1992年(平成4年)に興教大師850年御遠忌記念事業として、それぞれ本堂の改修が行われている。
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縁起
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建長寺14世頑石曇生が鎌倉幕府6代将軍、宗尊親王の菩提を弔うためにその念持仏を祀るために玉堂曇球を開山として創建した。寺号は念持仏に鏡が埋め込まれていたことに因んでいる。理由は不明であるが、念持仏は寺に安置されることはなかった。貞治7年(1368年)に安置された聖観音菩薩は病を治す薬草を霊夢で教えたり、雨ごいに応えるなどの霊験を顕したため眼明観音と呼ばれて尊崇された。この観音像は制作年代の明らかな貴重な像であることから岐阜県指定の文化財となっている。観音像が安置されている観音堂は伝承では観音菩薩と同年に建立されたとされるが、実際は室町時代後期に建てられたとみられている。茅葺の寄棟造で、希少な禅宗様の建築であるとして昭和52年(1977年)に国の重要文化財に指定された。戦国時代には戦禍に巻き込まれ衰微したが、江戸時代の寛永年間に愚堂東寔が再興して臨済宗妙心寺派となった。 ほかに、不動堂や大師堂などの堂宇がある。
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「賀茂神社 (うきは市)」の記事における「縁起」の解説
当社の行直大宮司が慶安4年(1651年)に誌した旧記には、 「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたがらす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」 と述べている。 境内では縄文土器、石器、群集石棺群などが出土している事から鑑みこの旧記が有る真実を伝えているものと考えられる。 賀茂神社社家の初代は、武内宿禰(たけうちのすくね)(孝元天皇の曾孫)19世 波多臣広庭(はたのおみひろにわ)の後裔、波多次郎救家の嫡男 久家和州 としている。(熊懐氏参照)
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縁起
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文禄2年(1593年)に秀栄和尚が毛利公より寺領を賜り旧・木挽町(現・中島町:平和公園前)に開山。 「木挽町」は、戦前、「材木町」「天神町」という町と並び、現在の平和公園前・平和大通りあたりにあった。その町名が表すようにこの界隈は戦前、木材問屋や材木店が数多く商いをしていた。 また、現在の土橋・堺町界隈には多くの商店や問屋もあり、県北や瀬戸内海から多くの材木や商品が船によって搬入搬出され、当時は広島の物流拠点でだった。 そのため、持明院は海上交通安全や商売繁盛・家内安全・諸願成就などの祈願所として当時、鎮守「金毘羅大権現」ならびに「歓喜天」が多くの篤い信仰を得ていたそうで、遠くは周防まで及んでいた。 移転前は爆心地から500mほどの場所にあったため、原爆投下により全て焼失。 兵役より復員してきた当時の住職が檀信徒の協力を得て、戦後まもなくに同場所にて本堂を再建し、復興。 しかしながら、昭和42年(1967年)、市街地の都市開発などにより、復興を遂げた都会の喧騒から、より閑静な信仰の場を求め、現在の地(東区戸坂)へ移転した。
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縁起
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「称念寺 (千葉県長南町)」の記事における「縁起」の解説
寺伝によれば徳治2年(1307年)遊行2代他阿真教によって創建されたとされるが、一説によれば建治元年(1275年)その師である一遍によって創建されたともいう。いずれにせよ江戸時代初期までは時宗に属していたが、浄土宗の僧霊巌によって浄土宗に改められ、江戸幕府から朱印状が与えられていた。本尊の阿弥陀如来は「歯吹如来」(はぶきにょらい)などと称されて信仰され、江戸時代には出開帳が行われていた。 現在の本堂は享保15年(1730年)に完成したもので千葉県の有形文化財に指定されている。欄間には、江戸時代の房総の名彫刻師、武志伊八良信由の晩年の傑作「龍三体の図」がある。
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縁起
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木花咲耶姫の神徳による安産祈願の神社として長く尊崇を受けており、古くから地域及び安産守護の神として深く信仰を集めている。詳しい創建は不明だが、大伯皇女の逸話よりこの地に祀られたと伝えられている事などから創祀は古く奈良時代頃だと考えられている。(唐・新羅連合軍により滅ぼされた百済の遺臣の援軍要請に応じて白村江の戦いに出兵した中大兄皇子に妊娠中の大田皇女が随行した。瀬戸内海の大伯の海(現在の燧灘)で産気づいた時に黒島に立ち寄り安産祈願をしたところ、無事に大伯皇女を出産したという古くからこの地域で伝えられている伝承。)南北朝時代には南朝の勅願所とされていた。江戸時代には西条藩祈願所六社の一として高2石を寄進されている。
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縁起
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「延寿寺 (兵庫県市川町)」の記事における「縁起」の解説
延壽寺の開基は真性院観法日浄居士(俗名堀太三郎)開山は浄徳院日常上人(俗名堀桓房)である。 堀家には往昔より地神と称する1社頭が有り。霊験あらたかで利益を受ける人多くあり。開山桓房上人10歳にして、病魔の犯すところとなり、医薬を尽くすが完治無し、当時霊感素晴らしいとの評判高き、滝野妙見寺開山恵城院日薫上人を堀家に曲招し、ご祈祷1週間。上人の曰「堀家の地神は高貴な武士児島高徳なり。法華経により世に出たし」この法説を聞いた実父太三郎は禅家の念珠を断ち、日蓮宗に帰依し地神を児島大将軍として法華経により明治32年8月26日堀家に勧請する。 この功徳によって開山桓房上人の難病もたちどころに平癒し、実父の信仰と児嶋大将軍のご守護に導かれ、厳寒30日間市川の結氷を破り寒水行20数年及び大信力を得た桓房上人、大正14年2月20日36歳にして上岩日啓寺大西桓城上人について祝髪し、同年5月1日児嶋大将軍木像を開眼、日蓮宗高徳院教会所を設立。先ず寺の中心となる一字一石の宝塔を昭和5年建立、次に信徒の足を伸ばせる場所を同7年建築す。昭和10年本堂庫裡の完成、10年5月2日入佛式、16年山門土塀が完成し、寺観を整え昭和17年3月14日寺号公称『高徳山延壽寺』として発足した。
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縁起
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人皇第32代崇峻天皇・第33代推古天皇の御代、播磨国現在のたつの市に伊福部連駁田彦という長者があり、人格者で近くの住民に篤く信頼されていた。この彦の邸の裏によく茂った社があって、推古天皇2年正月1日にこの社の上に異様に輝くものが現われた。彦がこれを見つめていると忽然として容貌端麗な童子の姿となって曰く、「我は天照国照彦火明命の使である。天火明命の幸御魂はこの地に鎮まり、この土地と人々を守り給うて既に千年を超ゆ。今汝の正直、誠実なるに感じ給い天降りまして神勅を授けようとされている。神勅を奉戴し新しい神社を造営して奉祀せよ。すなわち、今ここに種稲を授け給う。これを耕作すれば汝の田のみならずこの里全体に豊かに稔り、この土地は永く栄えてゆくであろう。」と。ここで使者の童児はまた忽にして昇天して去り、あとに種稲が残されていた。駁田彦がこの神勅を尊み奉戴することを誓うと彦の田のみならず近くに一夜にして千頂もの水田ができた。駁田彦が中心となって神社を建立奉斉し、またこの水田に授かった種稲を耕作すれば大豊作となり一粒万倍したという。以後この土地は米粒を意味するイイボ(粒)の郡と呼ばれ播磨の穀倉地帯となった。駁田彦を始め入々は嬉び感謝し、この神社を粒坐天照神社と称して氏神と崇め今日に到っている。
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縁起
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本尊:不動明王(伝弘法大師作) 、前立二童子 末社:薬師堂、山の神、宇賀神社、倶利伽羅不動滝(この滝の下は祓川となっている)、岩谷十一面観音(伝弘法大師作)、正観音(宣長作) 817年(弘仁8年)に弘法大師がこの山を開基する。金銅で阿弥陀観音像を作って、白銀で鏡を作り大円光と名付ける。弘仁13年左大臣誠公社殿が造営される。857年(天安元年)3月、地震のために全てが埋没する。891年(寛平3年)宇多天皇は出羽郡司の小野良実の子、小野良房を勅使として額を賜る。「いやましの光りも時に埋まるる あらはれ照らせ松峯の月」同年、月山大権現と書いた真筆の額を奉納する。寛平7年、小野良房を奉行として社殿を造成する。 以後、数百年の間経歴ははっきりしない。1403年(応永10年)、領主の浅利氏が社殿造成以後、同家の崇敬するところになる。慶安元年、佐竹氏が不動仏を信仰して、本社は仏堂の姿に変わる。寛政年間に別当の伝寿院の僧侶が土中より駅路の鈴を発見する。1801年(享和元年)藩主佐竹義和が領地巡検の際に、この鈴を献上する。明治3年不動仏を廃する。例祭には旧藩庁より弊物を送られる。1873年(明治6年)に村社になる。現在の祀神は月読大神である。本殿は昔、古田中村と称したが、鎮座する山名の松峰をとってその名とした。 本殿の狛犬は、伊多波武助が奉納したものである。
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縁起(佐世姫物語)
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「西方寺 (郡山市)」の記事における「縁起(佐世姫物語)」の解説
日和田の城主安積左衛門忠繁にあやめ姫と言う娘がいた。ある時、家来の安積玄蕃時里があやめ姫を妻にしようとしたが許されず、怒った時里は姫を館から追い出して城主らを殺してしまった。姫は時里を嫌い、「死に変り生き変り仇をうつであろう」と言い残して沼に身を投げた。 その後、姫は大蛇となって時里の一族を滅ぼし、それでも怒りは収まらずにこの地方を荒らした。困った人々は毎年3月24日に娘を一人ずつ人身御供として差し出した。そして33人目の時、片平村の権勘太夫の娘が選ばれた。権勘太夫夫婦は娘の命を救うため、大和国の長谷観音にお参りし、そこで佐世姫に出会った。 佐世姫は権勘太夫の娘の代わりに自分が犠牲になると申し出て、沼のほとりで大蛇を待った。そして、大蛇が現れると佐世姫は法華経を唱えた。すると、大蛇は沼に戻り天女の姿になって蛇骨を残して昇天した。残された蛇骨で地蔵を彫り祀ったところ、日和田の地に再び平和が訪れた。
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「恵比寿神社 (渋谷区)」の記事における「縁起」の解説
旧天津神社の資料が乏しく、縁起については不明である。当時の御祭神は国常立神、豊雲野神、角杙神、意富斗能地神、伊邪那岐命、伊邪那美命の六柱。大六天(だいろくてん)、大六様(だいろくさま)、と呼ばれ、親しまれていたと伝えられている。
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「白髭神社 (松戸市)」の記事における「縁起」の解説
良源が天暦年間(947年~957年)に近江から隅田川のほとりへ勧請した白髭大明神から、さらに元禄11年(1698年)この地に分霊を祀ったと伝えられる。一方現地案内板によると、承平5年(935年)平将門が伯父平国香を殺し、関八州を平定する戦いで多くの武士を亡くしたが、その慰霊と怨霊封じを期して、茲恵大師(良源、912年-985年)が下総国日暮村に猿田彦命をお祀りしたのが始まり、とされている。
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「長勝寺 (江戸川区)」の記事における「縁起」の解説
長勝寺の開祖・日信は初め、京都本圀寺14世・日助の弟子で、日蓮が生れ立教開宗した安房小湊を巡錫した際に江戸川区一之江に留まり、二間四面の法華堂を建立し多くの信者を得たという。また法華堂は千葉の大本山・中山法華経寺の宿泊所にもなったと伝わる。 日信は一之江では妙覚寺9世・日住の弟子となり、長勝寺は当初、妙覚寺の塔頭であった。日信は寛永2年(1625年)に没した。 天和元年(1681年)長勝寺は江戸幕府より国家安泰の祈願所として許され、寺社奉行より境内地を年貢免除となる除地として譲り与えられた。その後、長勝寺は元禄(1688-1704年)の頃から盛んになった鬼子母神信仰と共に祈祷所として隆盛し、多くの参詣者が訪れたという。
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縁起
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1274年、日蓮一向が身延山に赴くために酒匂川まで来たものの、増水により渡ることができないでいると、翁に化身した地蔵菩薩の導きで地蔵堂に1泊し、翌日無事に川を渡ったという。その時に堂守が法華経の教えを受けて日蓮宗に改宗し、後に同所に越中阿闍梨朗慶によって法船寺が創建されたと伝えられている。
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「妙輪寺 (神奈川県大磯町)」の記事における「縁起」の解説
延文元年(1356年)この地の真言寺主は、鎌倉比ヶ谷妙本寺・池上本門寺、両山の三世である大経阿闍梨日輪(日蓮入滅の際、兄経一丸と共に稚児として仕えた亀王麻呂)と大いに宗義を論じたが、ついに信順して宗を改め寺を日蓮に献上した。 翌延文2年(1357年)日輪は方駕を今のこの地に進め、四月開堂して説法をし、福聚山妙輪寺(当山)と号した。また永聖跡(寺格)として今日に至る。 開山・日輪の母は妙朗尼であり、尼の父は印東領主印東次郎左衛門尉藤原祐照といい、母は工藤祐経の娘である。 当山日蓮聖人像は疱瘡身代り守護の像といわれた。現在も病気身代り守護の像として、祈願参詣が多い。徳川時代は紀州家の姫が度々宿泊し、また江戸城の奥女中の参詣が少なくなかった。 天保7年(1836年)9月5日夜九ツ時、北下横丁大工半七火元にて宿内大半焼失、自他十一寺焼した。その後仮建物で過ごし、明治末に現在の本堂は再建されたものである。 古文書と仏像の一部は災をまぬがれて、特に当山二世である日尚(真言寺主)に授けた開山日輪聖人真筆曼荼羅が現存し、日輪聖人像(江戸時代中期、池上本門寺宝蔵より移した)も保存されている。 境内にある熊王稲荷は、大磯宿商繁盛の守護神として伝わる。
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縁起
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蘇我馬子が阿子丸仙人を開祖として建立したと言われる。 冠岳は山頂に熊野権現が勧請されており、その別当寺だった天台宗の寺「興隆寺」が頂峯院の前身寺院と考えられており、本来は山岳信仰に根ざした寺であったと考えられる。 明治2年の廃仏毀釈で廃寺となったが、1983年に冠岳西岳の中腹に移転して復興した。旧寺院跡は冠岳バス停近くにあり、仁王像や狛犬などが残っている。
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縁起
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蓮泉寺は、寛文11年(1671年)10月13日に、京都の本法寺17世 日休上人の弟子である、智境院日演上人により創立された。蓮泉寺が建った場所は、山号寺号が残る真言宗の寺院の旧跡で、後藤八郎太夫の田地となっていたが、八郎太夫は一宗の道場となることを有りがたく思い、残らず土地を捧げた。日演上人が本法寺17世 日休上人の弟子であったことから、元は本法寺末であったが、門中融和のために、妙顕寺の末寺となり、妙顕寺の日空上人より承諾の書類を下された。日演上人は、時の姫路城主 松平大和守直矩公と懇親が深く、嫡子に恵まれなかった直矩公に対し、世継ぎ誕生の為に、当山の鬼子母神様信仰を進め、男子誕生という功徳によって、山林を賜わったことが縁起録ならびに直矩公の位牌に記されている。
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「教信寺 (加古川市)」の記事における「縁起」の解説
教信寺は称名念仏の創始者である教信によって開基された。教信は、興福寺の僧であったが、奈良の貴族仏教に満足できず、各地を放浪し、現在の加古川市野口町にあった賀古駅家(かこのうまや)の北辺に庵を建て、ここを永住の地とした。阿弥陀仏の称名に明け暮れると共に、西国街道の旅人の荷物運び、農耕の手伝い、駅ヶ池の造成など行った。教信の入寂後、遺言により亡骸は野に置かれた。体は鳥獣に食われていたが、首から上は無傷の状態であった。その説話を今に伝えるよう教信の頭像である沙弥教信上人頭像が作成され、開山堂の本尊とされている。 室町時代には堂宇13僧坊48を数える大伽藍(寺伝)になっていたが、戦国時代、毛利勢と羽柴秀吉勢との激戦の地となった。1578年(天正6年)春に兵火により全焼し、1642年(寛永19年)現在の寺領の姿にまで復興した。幕末期に、再び本堂を焼失したが、1880年(明治13年)書写山円教寺の念仏道場を移築し、現本堂とした。中世から江戸幕末まで浄土宗西山禅林寺派であったが、明治初期の文明開化による廃仏毀釈や廃藩置県の政策で衰退した仏教寺院から復興するご縁で当山は天台宗に改宗した。教信の家族を守り家族と共に賀古の里に生きた念仏者としての生活は平安時代の『往生十因』などに記述され鎌倉時代の念仏の僧である親鸞や一遍などの生活や信仰に大きな影響を与へたと言われる。『改邪鈔』には親鸞の「常のご持言は」「われは賀古の教信沙弥の定なり」と親しく述べられた、との記述が残され今も真宗信者の参拝が絶えない。また、沙弥との呼び掛けも僧の地位の低さを表すのではなく「非僧非俗」としての念仏僧侶の新たな生き方を標榜する言葉として受け止められている。また、国宝『一遍上人絵巻』には念仏三昧の一遍が随員と共に教信の墓に親しくお参りしたことが描かれて名高い。
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鎌倉時代(1250年代)、この地を訪れた一人の旅僧が高熱で重体に陥ったとき、五代目守屋辰次郎が手厚く看病し、僧は数日後に全快した。この旅僧は、実は執権 北条時頼公であった。時頼公は書状に「辰次郎こそ医術に優れ、仁徳、人望厚き無類の名庄屋である。高齢のため万一何かあれば、ゆかりの地にその徳を讃えて霊神として末永く祀るべし。」と記した。辰次郎亡き後、人々は「足神霊神」として祀った。これが足神神社の始まりといわれる。
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縁起
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天平神護元年(765年)に泰澄禅師が自刻の十一面観音菩薩を本尊として加賀白山の山麓に創建したと伝わる。後鳥羽天皇の時代に戦禍により一時廃絶の憂き目に遭うが、永享5年(1433年)に醍醐寺の成伝律師が再興した。北陸が前田家の領地となるとその祈願所として隆興し、富山藩が成立するとそれに伴い富山市長柄町へと移転した。明治13年(1880年)、火災に遭い、それ以前の記録が失われる。大正7年(1918年)に富山での寺院の維持が困難になり高山市へ移転し、さらに本堂の改築を契機に昭和5年(1930年)に現在地へ移転した。境内の墓地地には大原騒動で駕籠訴人として処刑された江名子村孫次郎の墓がある。
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縁起
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1537年 本願寺 証如に帰依した当地の西岡与八が剃髪して念玄と法名し、天文6年3月有志と協力して創建した。当初、穂積ノニシノテラと呼ばれたが、後に忍法寺の号がくだされた。ちなみに、忍術とは関係がない。
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縁起
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熊野権現とは熊野三山の祭神である神々をいい、特に主祭神である家津美御子(けつみみこ)(スサノオ)・速玉(イザナギ)・牟須美(ふすび、むすび、または「結」とも表記)(イザナミ)のみを指して熊野三所権現、熊野三所権現以外の神々も含めて熊野十二所権現ともいう。 熊野三山は熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の三社からなるが、当初は別個の展開をたどり、本宮は崇神天皇代、速玉は景行天皇代(『扶桑略記』)、那智は孝昭天皇代に裸行(裸形とも)が開基した(『熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記』)とするが定かではない。正史において、神名が確実に確認できるのは大同元年(806年)の史料中にある記述で、天平神護2年(766年)付で速玉神と熊野牟須美神にそれぞれ4戸の神封を施入したとあるもので、これら2柱の神は今日の新宮に比定される熊野神邑(くまのしんそん)に一緒に祀られていたと見られる。 9世紀中ごろになると、単に熊野坐神(くまのにますかみ)とだけ呼ばれ、神名が明確でなかった本宮の神が家津美御子ないし証誠菩薩と呼ばれるようになり、新宮の牟須美・速玉とともに家津美御子が古くからの熊野神であるとの伝承が成立した(「熊野権現垂迹縁起」、『長寛勘文』所収))。さらに、『中右記』天仁2年(1109年)10月26日条にはこれら3柱の神名のみならず、五所王子、一万眷属、十万金剛童子、勧請十五所、飛行夜叉、米持(めいじ)金剛童子の名が挙げられ、鳥羽院・待賢門院の参詣記(『長秋記』所収)長承3年2月1日条には『中右記』に挙げられていた十二所権現とその本地仏が挙げられており、この頃までに熊野三所権現および熊野十二所権現が確立していたことが分かる。那智は本宮・速玉とは性格を異にし、古くは滝篭行の聖地として知られ、当初は結神を主祭神としていたが、鎌倉時代初期に成立した『熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記』には熊野十二所権現の祭祀に関する縁起譚が記されており、この頃までに本宮・速玉の祭神をもあわせ祀っていたことが分かる。以上のように、12世紀末までに三山が互いの祭神を祀りあうことにより、三山は一体化を遂げたのである。
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縁起
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蔵王権現は、役小角が、吉野の金峯山で修行中に示現したという伝承がある。釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩の三尊の合体したものとされ、今でも吉野山の蔵王堂には互いにほとんど同じ姿をした三体の蔵王権現像が並んで本尊として祀られている。 神仏習合の教説では安閑天皇(広国押建金日命)と同一の神格とされたため、明治時代の神仏分離の際には、本山である金峯山寺以外の蔵王権現を祀っていた神社では祭神を安閑天皇としたところも多い。 また神道において、蔵王権現は大己貴命、少彦名命、国常立尊、日本武尊 、金山毘古命等と習合し、同一視された。その為蔵王権現を祭る神社では、主に上記の5組の神々らを祭神とするようになった。 また、中世出雲大社の祭神スサノオが鰐淵寺の本尊蔵王権現と同体とされていた。
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縁起
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慶長5年(1600年)に小場義成の父・小場義宗が常陸国の小田城城主となったが、小田城近くに遍照院長久寺があり、関ヶ原の戦いのあと、佐竹氏が常陸国より秋田に転封した際に、随伴した小場義成に従って長久寺も秋田の手形東新町の六供屋敷に一緒に秋田入りしたとされる。 慶長15年(1610年)に小場義成が久保田藩 大館城の初代城代となり、それにともなって大館城の東(現在地)に新たに遍照院が建立された。 当初の本尊は薬師如来であったが、戊辰戦争(大館城攻城戦)のおりに、盛岡藩によって大館城が落城すると同時に当寺の堂宇や本尊もそのときに焼失しており、以来本尊を不動明王としている。 なお、常陸国の遍照院長久寺は南北朝時代の至徳3年(1386年)小場大炊之助義躬の開基とし、常陸国佐竹郡小場に創建され、慶長3年(1598年)に小田城に移転して、現在も真言宗豊山派の寺として小田城址の北西(常陸小田駅跡近く)茨城県つくば市小田2716【地図】に現存している。
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縁起
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この地の支配者であった島津氏分家の伊作家4代である島津久義が、伊集院(現・日置市伊集院)にあった広済寺の末寺として建立し、当家の菩提寺となった。しかし、明治2年の廃仏毀釈で廃寺となり、翌年に歴代伊作家当主を祭神とする石亀神社となった。
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縁起
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「白鬚神社 (鶴ヶ島市)」の記事における「縁起」の解説
奈良時代の創建と伝えられ、武蔵国を開拓するためにこの地に居住し高麗郡をつくった高句麗人たちが築いた神社とされている。高句麗人は高麗郡に26の神社を創建し、それぞれを村の鎮守として崇敬したという(高麗郡における高句麗人の創建した神社として日高市の高麗神社が有名)。江戸時代頃までは和田、高倉、大六道(上新田)、小六道(中新田)、太田ヶ谷、針うり、脚折の7村(現在全て鶴ヶ島市)の総鎮守として崇拝され、明治時代以降は村社として存在していた。 2019年(令和元年)12月、今上天皇の御大典を記念し、鳥居を約300年ぶりに建て替えた。
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縁起
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文政年間約百四十年前の大出水の時、木切倉部落の民家と共に後形もなく、おしくもお宮もお札の版木も、何にもかも流失して、天保八年(1837年)まで奇石怪物に、注連はり廻して、お産安かれと祈った。それが引続き陽石に大注連を張る習となった。 天保八年秋、壮麗な陰陽石お産の宮が再び建立されて同秋彼岸、村を挙げての盛んな落成祝いが催されて、地元の村人たちは親に手をひかれて社見に行った事や、其時の踊りや、角力、筏流しの行事などをむかしがたりに残っている。 其の後明治初年(1868年)に再びお宮は流失して、草葺の小屋のような五坪位なお宮とも思はれぬ祠が、椎木林の中に、落葉に埋れ、苔むすままにおわした。 今から凡そ百幾年か前、真方に、漢法医の横山玄斉と云う先生が居られた頃、「おう子供がひとりもいないのか」「それは気の毒だ、お産の宮に詣りして、お授かりなさい」と笑顔で、よくお産の宮のお護附をそれぞれ持帰って、お祭りなさいと下さったそうだ。 また少しでも眼病がと、思われたときは、「お前は生目神社に早くお詣りして眼病を治すことを、つとめなさい」と教えられたそうだ。 明治十四年(1881年)頃までは、当地の風習で妊娠したら必ず此のお産の宮に安産祈願に詣り、川原の小石を二つ拾い帰り、安産お守り札と共に神棚に祀り、産気付いて陣痛が起ったなら、両掌に小石を、しっかりと握りしめ力いっぱいりきんだそうだ。 神の御利益てきめん、安く生んだ、と昔のお婆さんたちには当たり前のこととされていた。 この「お産の宮」と、近くにある渓谷の「三宮峡」と、偶然にも言葉の音の一致、しかも小林名所のためよろこばしいことである。 現在、幾度かの洪水により流出し、お産の宮は、現存せず地元の有志や地主によって再建の計画が持ち上がっている。
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縁起
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「平安寺 (岐阜県池田町)」の記事における「縁起」の解説
平安時代末期の応徳年間に白河法皇が谷汲山華厳寺参詣の帰途に病を得たが、弓削寺で湯治をして快癒した。その謝恩のために大般若経を弓削寺に奉納し、それを納める平安殿を建立したのが当寺の濫觴であるとされる。平安寺と共に創建時は天台宗であったが後に衰微した。 江戸時代の万治元年(1658年)に快伝和尚が再建し、臨済宗妙心寺派に改めて中興して現在に至る。寛文7年(1667年)には大垣藩主戸田氏信より黒印状を付されている。江戸時代末期に近在の秋葉神社に建てられていた二重の塔を境内に移している。
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縁起
「縁起」の例文・使い方・用例・文例
- 縁起のいい出来事
- 縁起の悪いことを言いなさんな。
- 縁起に塩をまいて清める。
- 縁起でもないこと言うなよ。
- 7は縁起のいい番号だ。
- 4は日本語では縁起の悪い数字だ。
- それは私にとって[この先]縁起が良い[悪い].
- これは君には縁起が良くない.
- 縁起のよい[悪い]事柄.
- 13日の金曜日は縁起の悪い日だと信じられている.
- それを縁起のために買った[とっておいた].
- 縁起でもないことを言うな.
- 朝っぱらから縁起でもない.
- 黒猫は縁起がよいというのは一般の迷信だ.
- 出がけにくつひもが切れるのは縁起が悪い.
- 縁起直しに飲みに行こうよ.
- 茶柱が立つのは縁起がいい.
- 縁起が好い
- 縁起が悪い
縁起と同じ種類の言葉
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