日本ハム監督時代
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2008年シーズンから北海道日本ハムファイターズの監督として4年ぶりに現場復帰。就任会見では「近鉄が消滅して自分の居場所がなくなったような気がしていたが、こうして現場に復帰できて嬉しい。日本ハムは強いチームだ」と抱負を語った。前年11月25日に札幌ドームで行われた日本ハム・ファンフェスティバルにて、前監督・トレイ・ヒルマンから梨田への背番号「88」の継承式が行われた。2007年夏、梨田が日本ハムから監督就任を要請された際、すぐに真弓にヘッドコーチを打診。だが、真弓は親族の世話をみることを理由に断った。就任1年目のシーズンは3位でリーグ戦を終了。クライマックスシリーズ第1ステージをオリックス・バファローズと戦い2連勝して第2ステージへ駒を進めたが、埼玉西武ライオンズに2勝4敗(リーグ優勝チームに与えられるアドバンテージを含む)と負け越し、日本シリーズ進出を逃した。 就任2年目の2009年シーズンは、チームを2年ぶりのリーグ優勝に導く。近鉄監督時代も就任2年目でチームをリーグ優勝に導いている。リーグ戦終了後に行われたクライマックスシリーズでは福岡ソフトバンクホークスとの第1ステージを制した東北楽天ゴールデンイーグルスを札幌ドームに迎えて第2ステージを戦い、4勝1敗(リーグ優勝チームに与えられるアドバンテージを含む)と勝ち越し、日本シリーズ出場を決めた。現役時代を含めて4回目の出場となった日本シリーズでは読売ジャイアンツに2勝4敗で敗れ、選手2回、監督2回と計4回全て日本シリーズ敗退。 2010年1月、一軍投手コーチに就任したばかりの小林繁が心不全により急逝。近鉄監督時代の2004年にも、二軍打撃コーチだった鈴木貴久を急性気管支炎で失っている。この年はほぼ中継ぎ経験しかないブライアン・ウルフをシーズン途中に先発に転向させなければならなかったり、二軍で野手が9人しかいなくなる程ケガ人が続出し、一時借金14の最下位と低迷しながら、小谷野栄一が4番に定着した交流戦頃からチーム状態が向上し、シーズン終盤にはクライマックスシリーズへの出場権をかけた3位争いを演じるところまで浮上。最終的には貯金7でシーズンを終え、全日程を終了した時点では3位だったが、千葉ロッテマリーンズが最後の3試合を全勝すれば3位浮上という状況の中で全勝したため、最終的には4位、日本ハム5年ぶりのBクラスでシーズンを終えた。この年4位になったことで、梨田は監督として全順位を経験した(全順位経験監督には梨田以外だと吉田義男、野村克也、長嶋茂雄、王貞治、星野仙一がいる)。 2011年は開幕カードとなった対西武2連戦(札幌ドーム)を連敗でスタートしたものの4月を10勝5敗で乗り切るなど好調な滑り出しを見せ、シーズン前半は福岡ソフトバンクホークスと2強を形成し首位争いを演じたが、終盤に来て9月を6勝18敗1分と負け越すなどチームの調子が急降下し、最終的には首位ソフトバンクと17.5ゲーム差の2位でシーズンを終えた。クライマックスシリーズ第1ステージは埼玉西武ライオンズとの対戦となったが、シーズン終盤の不振をそのまま引きずった格好となり2連敗で敗退。シーズン終盤になって一部メディアで解任説が流れたため、自身の去就について、シーズン途中で異例の9月15日に、2011年を最後に監督を退任することを記者会見で表明した。シーズン前から「4年目の2011年で降りようと決めていた」と語り、解任ではなく辞任であることを強調する会見となった。 日本ハムでは指揮を執った全てのシーズンで勝ち越しているが、複数年指揮を執り全シーズンで勝ち越したのは梨田が球団史上初である。
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日本ハム監督時代
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「トレイ・ヒルマン」の記事における「日本ハム監督時代」の解説
就任1年目の2003年は5位、球団の北海道移転元年の2004年はレギュラーシーズン3位の成績でチームをプレーオフへ導いた。2005年は7月に実母死去に伴い一時帰国。帰国中の間、白井一幸ヘッドコーチが監督代行を務めた。チーム成績は5位であった。 2006年はチームをレギュラーシーズン1位に導き、10月12日にプレーオフを制し、25年ぶりにパシフィック・リーグ制覇。10月26日に中日ドラゴンズとの日本シリーズを制し、遂に44年ぶりの日本一を達成。日本ハムファイターズとしては初の日本一となった。パシフィック・リーグフラッグに引き続き、日本チャンピオンフラッグが初めて津軽海峡を越えた。第2回KONAMI CUP・アジアシリーズ2006で、見事に2年連続で日本勢によるアジアチャンピオンになる。 プレーオフへ向けてのリーグ1位通過・プレーオフを制してのリーグ優勝・日本シリーズ優勝のそれぞれで毎回「シンジラレナ〜イ」を発し、この年の流行語大賞トップ10に入った。 2007年は球団へ強い要望を出して、同じ大学出身のデーブ・オーウェンを一軍コーチ補佐に招聘。5月19日から6月8日にかけてチーム新記録となる14連勝を達成した。これは、外国人監督としての最高連勝記録であり、この間の交流戦12連勝もプロ野球記録となっている。 9月8日、「子供が多感な時期で、父親としての責任を全うしたい」という理由から、シーズン中に退任を表明。9月29日、球団史上初のリーグV2を達成(千葉マリンスタジアムにて)。10月18日、クライマックスシリーズ優勝(札幌ドームにて)。翌10月19日、カンザスシティ・ロイヤルズの監督として複数年契約が成立(後述を参照)。日本ハム監督としては同年の日本シリーズまで指揮を執るも、中日ドラゴンズに1勝4敗で敗れる。5試合の平均得点は1・4点と低打率に泣き、特に第5戦では山井大介→岩瀬仁紀のリレーで完全試合を喫している。第3戦では3番の稲葉、4番のセギノールを序盤で大差がついたため途中交代させたことが批判の要因になった。江夏豊からは「日ハムはまだ発展途上のチーム」と分析された。
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