日本ハム復帰
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2011年12月7日、古巣の日本ハムと契約することが発表され、3シーズンぶりに復帰することになった。背番号は再び10に決まった。 2012年は左翼手に中田、一塁手に稲葉が定着しているためDHでの出場、DH制のないセ・パ交流戦のセ・リーグ主催試合では代打での出場となった。主に7番打者を務め、5月22日のDeNA戦にて、史上23人目となる全球団から本塁打を達成するなど、前半戦のチームの首位争いにも貢献していたが、6月19日に左膝の検査を受けるため帰国した。その後、6月30日に左大腿骨滑車溝に4度(重度)の軟骨損傷と遊離軟骨があると診断され、リハビリが進まず、結果的に復帰できないままシーズンを終えた。オフの11月5日、球団より退団が決定したことが発表された。その後は契約する球団はなく、現役を引退した。
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日本ハム復帰
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2014年12月16日に、古巣の北海道日本ハムファイターズが獲得を発表した。3年振りの古巣復帰となる。背番号は「3」。 2015年は"2番・二塁"で開幕を迎える。4月途中から陽岱鋼が怪我で離脱してからは3番に座る。5月13日の埼玉西武ライオンズ戦でスイング途中に右肩の違和感(診断後、右肩の亜脱臼と判明)により5試合欠場するが、5月20日東北楽天ゴールデンイーグルス戦で復帰。以後は走塁の際に右腕でユニホームの左胸側を掴みながら走るなど、痛みを最小限に抑えるようにしながらクライマックスシリーズ終了までプレーを続けた。年間を通して得点圏でめっぽう強く、得点圏打率.346を記録。わずか4本塁打で66打点の自己最高記録を残した(打点の自己最高記録は2008年の63打点だったが、その年の長打率と比べると1割も低い数字であった)。また、ベストナインを獲得し、念願だった正遊撃手の中島卓也との同時受賞を叶えた。 2016年は開幕を"3番二塁"で迎える。春先から3割前後の打率を残し続け、主に3、5番のクリーンナップを任せられた。7月10日千葉ロッテマリーンズ戦で、チーム14連勝がかかる試合、1点差で迎えた9回二死で、西野勇士から2号同点ホームランを放ち、チームの14連勝に貢献した。また、この勝利によって、チームの本拠地500勝も達成した。8月ごろから調子を落とし、打率.272、53打点、22盗塁でシーズンを終えたが、指名打者で先発出場した1試合を除いた142試合に二塁で先発出場し、チームのリーグ優勝に貢献した。CSファイナルステージでは極度の不振に陥り、第4戦まで全て先発起用されるもヒットがなく、第5戦では先発を外れた。しかし、日本シリーズでは復調し、全試合に先発出場しチームの日本一に貢献した。 2017年は開幕を"2番二塁"で迎えるも、春先から攻守ともに不振に陥った。4月29日の楽天戦では、松井裕樹から自身4年ぶりとなるサヨナラ打を放った。また、7月6日の西武戦では通算200盗塁を達成した。二塁としてチーム最多の50試合に先発出場するも、若手を積極起用するチームの方針から先発を外れることも多く、指名打者や代打に回ることが多かった。107試合に出場し、打率.252、18打点、11盗塁という成績を残し、1年間一軍に帯同し続けた。オフの契約更改では、前年の年俸2億円から1億2500万円減となる7500万円(金額は推定)の提示を受けながらも、チーム愛を理由に残留を決意した。 2018年は開幕スタメンを外れ、春先から不振に陥ったが、6月27日に那覇で行われたソフトバンク戦では、1点ビハインドの9回に代打出場し森唯斗から同点タイムリーを放ち、チームのサヨナラ勝利につなげた。8月は月間打率.433を記録するなど、シーズン中盤から本来の調子を取り戻し、最終的に67試合に出場し、打率.295、8打点でシーズンを終えた。また、先発出場した14試合では3割後半の打率を残すなど、少ない出場機会の中で結果を残した。その後「2018年シーズン終了時に8、9割辞める気でいた」と語っていたが、球団からの慰留を受け熟考し「最後の1年間、応援し支えてくれた方々に対して感謝の気持ちを伝えたい」と考えを変え、12月25日の契約更改後の記者会見で2019年シーズンをもって引退する事を表明した。 2019年は代打や指名打者としてフルシーズン一軍に帯同し、王柏融など主力の離脱時には3番、5番と中軸を任された。5月29日の千葉ロッテマリーンズ戦(札幌ドーム)では、1点ビハインドの8回裏に酒居知史から代打逆転ツーランホームランを放った。9月1日に楽天生命パークで行われたイーグルス戦では、森原康平から日米通算1500本安打となる右前適時打を放った。シーズン最終戦となった9月27日のオリックス・バファローズ戦(札幌ドーム)で引退試合が行われ、2番・指名打者で先発出場する。現役最終打席となった8回裏に山岡泰輔から右翼フェンス直撃適時打を放つなど4打数2安打1打点と活躍した。9回には自ら志願して二塁守備につき、現役生活を締めくくった。
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日本ハム復帰
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2017年12月4日に北海道日本ハムファイターズに二軍育成コーチ兼捕手として復帰することが発表された。年俸は1,100万円(推定)で、背番号は90。7月6日に一軍登録され、翌7日にコーチ登録を抹消された(これはベンチ入り出来るコーチが8人のため、實松がベンチに入ることにより一人押し出されるのを防ぐ措置)。二軍コーチ兼任という立場もあり、結局一軍出場は1試合のみだった。 2019年9月17日に現役引退を表明した。9月23日、鎌ヶ谷でのイースタンリーグ巨人戦にて引退試合が行われた。一軍でも9月26日の対オリックス戦(札幌ドーム)の試合前に引退セレモニーが行われた。セレモニーでは自身のドラフト同期入団である建山義紀と森本稀哲が駆けつけており、2人から花束を手渡されている。12月2日、自由契約公示された。
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日本ハム復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:04 UTC 版)
2017年12月18日に古巣・日本ハムへの復帰が発表された。背番号は22。FAで移籍した選手が移籍前の球団にFAで復帰するのは鶴岡がNPB史上初である。 2019年シーズンから一軍バッテリーコーチ兼捕手に就任し、コーチ兼任となった。 2021年シーズンは、一軍での出場が13試合に留まり、11月2日に球団からコーチ専任を打診されていたが、現役続行を希望し、退団。しかし、12月11日に現役引退を決断したことが表明された。鶴岡の引退により、東京時代の日本ハムファイターズに所属した現役選手がNPBから姿を消した。
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