現役生活
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1985年からラリー参戦を開始。世界ラリー選手権 (WRC) 初参戦は1987年のスウェディッシュ・ラリー。スバル・プロドライブに才能を見出されて1991年に同チームに加入し、スバル・レガシィを駆って1991年・1992年の英国選手権を制覇。WRC参戦をはじめたばかりのスバルの若き期待の星として、しばしば目を見張るスピードを見せるものの、派手なクラッシュも多く「マクラッシュ (McCrash)」と称された。 1993年のラリー・ニュージーランドで自身とスバルにとって初のWRC勝利を飾る。1995年にはイギリス人初、史上最年少(27歳109日)でのドライバーズチャンピオンを獲得し、スバルも初のマニファクチャラーズタイトルを獲得する。その功績により、1996年には大英帝国勲章第五位 (MBE) を受勲した。 1996年は3勝、1997年は5勝を上げ、スバルのマニファクチャラーズタイトル3連覇に貢献するも、ドライバー部門では三菱のトミ・マキネンに次ぐランキング2位にとどまった。 1999年シーズンからフォードに移籍。マシン開発と並行しながらの参戦とあって、4年間に9勝を挙げるもタイトル獲得はならず。ラリー史上最高額と言われる契約金がフォードワークスの財政事情に大きな負担となり、放出の最大の原因ともなった。 2003年にはシトロエンから参戦、この時のコ・ドライバーはスバル時代を共に過ごしたデレック・リンガー。ラリー・モンテカルロでいきなり表彰台にあがるが、その後はチームメイトのセバスチャン・ローブやカルロス・サインツの影に隠れて精彩を欠き、シーズン終了後に同チームのシートを失った。 2004年、2005年には日産ワークスチームからダカール・ラリー(通称パリダカ)に参戦した。時折好タイムをマークするなど健在ぶりを見せ付けるも、2004年は途中でマシントラブルに見舞われ順位を大幅に下げ、2005年は前半首位を快走していたものの突如横転しリタイア。2005年限りで日産がダカール・ラリーから撤退したため、以後は参加することはなかった。 2004年以降WRCへの参戦は実現していなかったが、2005年に9月のラリーGBと11月のラリー・オーストラリアでシュコダ・ファビアWRCに乗りスポット参戦を果たした。オーストラリアではレグ3の午前中のサービスに入る時点まで3位を走行しており、マクレー自身はもとよりシュコダ勢では久しぶりの表彰台が期待されたが、マシントラブルでリタイアした。 2006年10月、シトロエンのセバスチャン・ローブがトレーニング中の骨折で欠場したため、13戦トルコに代理参戦した。しかし途中6位 - 7位と振るわず、最終日に電気系トラブルでリタイアし、1戦のみの参戦となった。 2006年にはXゲームズの新ステージ「ラリー」に出場。終始トップ争いをしていたが、最終ステージのジャンプの着地に失敗し、転倒。それでもすぐに体勢を立て直し、左フロントタイヤがパンクしながらステージを走りきり、横転したにもかかわらずわずか 0.53秒差の2位でフィニッシュした(1位はトラビス・パストラーナ)。2007年も引き続き出場したが、準決勝で2年連続の転倒を喫し敗退。結果的にこれがマクレーにとっての最後のラリーとなった。
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