現役競走馬でない馬
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/16 01:50 UTC 版)
「ウイニング・チケット (漫画)」の記事における「現役競走馬でない馬」の解説
ヨシムネ オーナー:虎谷幸一 生産者:土屋畜産 主な勝ち鞍:クローバー賞 牡・2004年生まれ。二階堂ファーム設立初期、セリで売れ残って主取りとなったところを駿がピンフックのために購入してきた馬。 馬の扱いが良くないとの噂がある土屋畜産で育った。そのためやってきた当初はとても気性が荒く、ハミを取り付けられる事すら極端に嫌がって抵抗する暴れ馬だったが、まだ経験がゼロに近い一丸と渡辺が彼らなりの工夫で信頼を築いたことで、5日で鞍の取り付けに成功した。以後は気性がとても良くなったが、一丸はこの馬がかつて暴れん坊だった事にちなんでヨシムネの愛称をつけた。 5月のトレーニングセールでは100頭以上の中での一番時計をマークし、セリでも3,000万円の最高値で紋別畜産に落札された。その後虎谷幸一に買われ、競走馬名もそのままでデビューした。 虎谷にとって初のオープン制覇となったクローバー賞の口取り直後、熱海が1億円で購入を申し出たが、虎谷がこれを拒否したためオーナーはそのまま。しかし続くデイリー杯2歳ステークスで、白木の乗るブラボーライバルに激突されて落馬転倒。これで左後脚の飛節部分を粉砕骨折してしまい、程なく安楽死の処置がとられた。 ミスジェラルディン 昭和59年の桜花賞馬で、旧二階堂ファームから出た唯一のGⅠ馬。 繁殖入りした時、岩坂に見にくるようわざわざ電話するほど勉に今後を期待されていた。 鈴木に負わされた借金のカタの一部になるところを、勉がこの馬だけはとジョンに頼み込んだ事から、ミスジェラルディンを懸けた後先の勝負となった。結局勝負はジョンの勝ちとなったが、ミスジェラルディンがその後どうなったかについては触れられていない。 ロデオ オーナー:熱海(のちに売却) 主な勝ち鞍:コスモス賞 団が騎手だった2001年に稲村厩舎に入厩してきた。当初は競走馬としての訓練どころかまともに馴致も行えないほど凶暴な気性で、稲村も諦めて熱海に引き取るよう頼んだが、団の熱心な馴致が実を結び、気性が大幅に改善した。 団を鞍上に素質を発揮し、デビューからの3連勝を達成。しかし札幌2歳Sを目前に控えた時期にオーナーの熱海が半ば強引に中央へ移籍させた。乗り替わった札幌2歳Sでは、騎手との折り合いがつかずに惨敗した。 その数年後、気性が荒いという理由で地方の馬主に売られ、団厩舎に入厩して団と再会した。が、重賞の道営記念への挑戦を控えた矢先、暴れて牧柵に激突し死亡した。 ヒダカノホマレ 雪子が岩坂牧場に嫁いで初めて世話を担当した馬で、雪子からモモの愛称をつけて可愛がられた。のちに岩坂牧場の生産馬の中で唯一ダービーに出走した。 雪子はこの経験から、たとえ所有できずとも生産者として十分に幸せが得られることをモモから教わったと一丸らに話し、愛着が余ってヨシムネを売る事に断固として反対する一丸を説得した。 ジョディザスター 牝・1994年生まれ。アイルランドのマクラーレン牧場で生産された。幼名はジョディ。 母親のキャサリン譲りの荒い気性ながら、エドワードにだけは懐いていた。生後間もないうちに母親を事故で亡くし、母親の面影もなくある意味似た境遇となったエドワードからはそれまで以上に特別な思いで育てられるが、2歳の夏に血吸いバエが原因でパニックを起こし、エドワードの指を噛みちぎった。 その後ギルバートの調教で才能を開花させ、イギリスオークスとブリーダーズカップターフを優勝した。 マッカートニー 10年前の皐月賞馬。主戦騎手は植木だった。 皐月賞では結果的には大差で逃げ切る圧勝をしたが、それは臆病な気性のためにパニックとなり半ば暴走していたのを能力と植木の騎乗でカバーして勝った、非常に危うい走りだった。 ダービーでまた逃げをうって暴走寸前の状態で道中を走り続けたものの、その無理がたたり、直線に入ってすぐに骨折してしまう。落馬した植木が意識を取り戻して起き上がった時には既にその傍らで安楽死処分となっていた。 競走能力に限れば確実にミカヅキオーより上であると、駿と植木で一致する評価が与えられた程の力があった。
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