生産者として
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「エドワード・ライリー・ブラッドリー」の記事における「生産者として」の解説
1906年、ブラッドリーはケンタッキー州レキシントンにあったアッシュグローブファームというスタンダードブレッドを生産していた小さな牧場を買い取り、アイドルアワーストックファーム(Idle Hour Stock Farm)と改名した。当初400エーカー(約1.6平方キロメートル)だった牧場は1400エーカー(約5.6平方キロメートル)に拡張され、牧場は厩舎などの設備も揃えて大規模かつ本格的なサラブレッド生産牧場として生まれ変わった。 1912年、当時の著名なオーナーブリーダーであったジェームズ・ロバート・キーンより競馬資産処分の依頼を受け、彼の生産した馬の多くを転売を前提として買い取った。その大半は予定通り売却されたが、一部の産駒はブラッドリーが自分で所有し、競走に使われた。このうちの一頭に後の名種牡馬ブラックトニーがおり、ブラッドリーの競走馬生産の第一の柱となった。 また、ブラッドリーはキーンの「国産の種牡馬と欧州産の繁殖牝馬の掛け合わせ」という手法を取り入れ、欧州からの繁殖牝馬購入に積極的であった。1930年12月、ブラッドリーはニューマーケットでの競り市において、フランスのオーナーブリーダー・マルセル・ブサックが生産した未勝利の繁殖牝馬ラトロワンヌを購入した。このラトロワンヌは繁殖牝馬として大成功を収め、さらにその牝系から多くの名馬を輩出した。後年にブラッド・ホース編集部が選定したアメリカ競馬史の歴史的瞬間100選『Horse Racing's Top 100 Moments』において「ラトロワンヌの輸入」が第20位に位置付けられるなど、ラトロワンヌを手にしたことはブラッドリーの生産者としての最大の功績として扱われている。 生産者として大きな知名度を持ったブラッドリーは全米サラブレッド協会(現在のNTRAとは別組織)の会長を務め、またケンタッキー州の繁栄に貢献したとして、州知事よりケンタッキー・カーネル(ケンタッキー州軍名誉大佐)の称号を授与されている。
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生産者として
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和田は昭和後期の日本の馬産の世界においては、種牡馬パーソロンの導入と大成功、ルドルフ・シリウス等の「シンボリ軍団」の名馬たちの他にも、芦毛馬初の八大競走(天皇賞・秋)優勝馬のメジロアサマやダービー馬のサクラショウリを生産する等、最も華麗に成功し実績を残した人間の一人である。またその独創的な理論や思想は現代競馬においても受け継がれており、競走馬の生産・育成の立場から戦後の競馬の発展、日本の競走馬の質的向上に大きく貢献した人物でもある。 このように、確かに高い功績を持つ人物ではあるが、その反面、実績から得た自信故に我が非常に強い典型的なワンマンオーナーとしても有名[要出典]で、日本競馬史には大小数多くの騒動を巻き起こした[要出典]トラブルメーカーとしてもその名を残している。競走馬育成に対する自らの方針を貫こうとして厩舍サイドへ頻繁かつ過剰な介入を繰り返し[要出典]、厩舍関係者と摩擦や衝突を起こす事が少なくなく[要出典]、特に期待馬の育成や出走を巡って調教師の実権を事実上奪おうとすることもしばしばであった[要出典](マティリアルの項目も参照)。そのような状況でシリウスシンボリの騎手の起用を巡る二本柳俊夫との衝突が競馬界全体を巻き込む大騒動に発展したり、シンボリルドルフの海外遠征を巡って野平祐二と絶縁状態に陥ったり[要出典]等のトラブルを起こしている。 また、強豪馬の海外遠征もしばしば敢行しているが、これについても海外の大レースへの憧れ[要出典]のほかに、調教師や厩務員組合との対立から、これらの馬たちを共弘の意の通りに走らせられる場を求めた結果[要出典]、調教師や厩務員から馬を取り上げ、自身の手で海外挑戦をするしか道が無くなったという面が決して小さくはない[要出典]。しかし、この様な状況で共弘の手により強行的に実行された1980年代以降の海外遠征はことごとく不振に終わり[要出典]、特にシンボリルドルフのアメリカ遠征は、結果的に日本競馬史上屈指の傑作を故障させる事にもなってしまった。 しかし、ワンマンオーナーであり実績もあった共弘にシンボリ牧場の組織内から諫言を出来る者は誰も居らず[要出典]、これらの結果、共弘とシンボリ牧場は厩舎関係者から根強い不信感・警戒感を抱かれる様になった[要出典]。結果、厩舎関係者との意思疎通が順調に取れなくなり[要出典]、「シンボリ軍団」は低迷傾向に陥ってゆく[要出典]。特にシリウスシンボリの一件によって美浦トレセンの厩務員組合との関係を著しく悪化させてしまった[要出典]ツケは大きく、以降は預託先の確保や担当厩務員の固定にも苦労する事が多くなった[要出典]。ジャムシードのように当初は美浦の厩舎で競走馬登録されながらも、実際には海外の厩舎に預けられて海外で出走し、帰国・日本の競馬への出走にあたって何らかの事情から栗東の厩舎に移籍をした馬もいる。このようにトラブルを抱え続ける状況が競走馬の管理にも良いわけもなく、シンボリルドルフ引退後の「シンボリ軍団」はG1はおろか重賞勝ちすらもままならない長い低迷の時代を迎える事となるが、共弘を前に、事実上関係者は「誰も、何も、手を付けられない」状態が続いた[要出典]。 かくして、1990年代になると競馬サークルにおける共弘とシンボリ牧場の存在感や発言力は急速に低下してゆき、1994年の共弘の死去の際の競馬マスコミの扱いがもっぱら「昭和期に活躍した名ホースマン」という過去の人扱いであったように、その最晩年は不遇と言わざるを得ないものであった。 なお、1歳違いで同様に昭和の競馬界発展に貢献した吉田善哉とはライバル関係にあり、犬猿の仲ともいわれていた[要出典]。一方で最晩年に病床にあった吉田は「和田に会いたい」と漏らしたとされるが、その頃には共弘自身も体調を崩しており、それは叶うことなく吉田は1993年に死去し、後を追うように共弘も翌年亡くなっている。 1994年に共弘が死去し、息子の孝弘がシンボリ牧場を継いだ。孝弘とシンボリ牧場は、調教師・厩舍関係者との関係修復や外部からの新たな血統の導入に数年の時間を費やさねばならない[要出典]など、共弘の遺したトラブルと不振の後始末に追われ、苦難の道を歩んだ[要出典]。それでもなお、実績のあるベテラン調教師や厩舎関係者との関係修復が叶わず仕舞いで終わった所も少なくなく、[要出典]結果的に藤澤和雄等、共弘の意気盛んな頃にはまだ調教師になっていなかったり、厩舎を開業していても共弘からの馬の預託の実績が無かったりといった若手調教師の厩舎が、シンボリ牧場の主な預託先となっていった[要出典]。 孝弘が指揮した立て直しが功を奏するまでにはなお数年の時間を必要としたが、最終的にはアメリカ産のシンボリインディとシンボリクリスエスの登場によって結実することとなる。
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