生産・補給
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1942年(昭和17年)7月21日、陸軍技術本部に対し、8月10日までに40mm タ弾を300発、30mm タ弾を300発製造するよう依頼が行われた。内訳は、本物の炸薬および信管を装着した弾薬を200発、無炸薬無信管のものが100発ずつである。また、8月下旬までにタテ器(二式擲弾器)を30丁製造するよう指示が出されたほか、技本試験用として各口径タ弾薬を1,500発ずつ製造するよう求めた。内訳は1,000発が本炸薬本信管、500発が代用弾である。さらに実用試験用として30mm弾薬の製造が命じられた。数量は本炸薬・本信管の弾薬が350発、代用弾700発である。 同年9月には至急以下の数量を生産するよう指示がなされた。三八式小銃用タテ器が照準具付きで10,000丁、これは、ライフリングの転度が18度短とされた。また、30mm タ弾弾薬の生産数が100,000発、代用弾が20,000発とされた。9月4日、ラバウルに派遣されていた第17軍指揮下の沖部隊への補給品目には、一〇〇式擲弾器、600丁という内容が存在する。また、9月9日の追加品目中には、三八式小銃用タテ器(二式擲弾器)、10丁、および40mm タ弾弾薬、400発の内容が見られる。10月8日、40mm タ弾発射薬筒2,000発が陸軍兵器廠から第17軍指揮下の沖部隊に送られた。 こうした補給数に対し生産は順調ではなく、40mm タ弾は1944年(昭和19年)2月の時点で毎月10,000発の生産と引き渡しが要望されたが、4ヶ月の月平均実績は4,860発に過ぎなかった。
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