1999年シーズン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/27 07:26 UTC 版)
「フェラーリ・F399」の記事における「1999年シーズン」の解説
開幕戦はエディー・アーバインが制した。第3,4戦はミハエル・シューマッハが連勝。第6戦カナダGPではポールポジションからスタートするも、トップ走行中に最終シケインにクラッシュしてリタイヤ。この時点でシューマッハはミカ・ハッキネンの先行を許し、4点差で選手権2位だった。 第8戦イギリスGPでアクシデントが発生する。スタートするも、グリッド上で立ち往生したマシンがいたため、赤旗によってレース中断となった。しかし、それを知らされなかったシューマッハは高速のハンガーストレートから続くストウコーナーで前方のアーバインのインに入ったが、十分に減速することができずにストウコーナーを飛び出し、タイヤバリアにノーズから一直線に突き刺さった。この事故が元でシューマッハは右足を骨折してしまい、タイトル争いから離脱した。 代わってカーナンバー3のマシンに乗ったのはミカ・サロだった。序盤にB・A・Rから3戦出走していただけだったが、シューマッハが復帰するまでステアリングを握ることとなった。 シューマッハの戦線離脱により代理エースドライバーの立場となったアーバインは第9,10戦と連勝。タイトル争いは白熱していく。ハッキネンのリタイヤの回数はアーバインより多く、第13戦イタリアGP終了時についに60ポイントの同点となった。 そして第15戦から復帰したシューマッハは、同僚アーバインをサポート。ポールポジションを獲得し、レース中にアーバインを先行させた後は、ハッキネンをブロック。フェラーリの1-2を飾った。しかし、レース後の車検でマシンのディフレクターに規定違反との裁定が下り、フェラーリの2台は失格。3位のハッキネンが繰り上がりの優勝で、ハッキネンの1999年ワールドチャンピオン決定と一度は決まった。しかし、ジャン・トッドら首脳陣の抗議によって後日裁定が覆り、該当部分の寸法は誤差の範囲内であったとして元の順位に戻り、最終戦はアーバインの4ポイントリードで臨むことになった。 最終戦日本GPは、ポールにシューマッハ、2位のハッキネンが並んだ。アーバインは5位と出遅れてしまう。スタート時に、シューマッハは痛恨のホイールスピン。結局ハッキネンを捉えることができず、1位ハッキネン2位シューマッハ3位アーバインでチェッカーを受けた。アーバインは2ポイント差でランキング2位でシーズンを終えた。しかし、年間を通してライバルのマクラーレン陣営に対して信頼性に勝ったことで、1983年以来のコンストラクターズチャンピオンを獲得した。
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1999年シーズン
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「ジョーダン・199」の記事における「1999年シーズン」の解説
前年にチームとしての初優勝をワンツーフィニッシュで飾る劇的な経験をしたジョーダンは、この年さらなる躍進を遂げることとなった。 新加入のハインツ=ハラルド・フレンツェンが2勝を挙げ終盤までタイトル争いに食い込む活躍を見せ、前年チームに初優勝をもたらし残留したデイモン・ヒルはサンマリノGPの4位が最高で表彰台に登ることはできなかったが、卓越したマシン開発能力はシャーシの進化に多大な貢献を果たしたと言えた。ヒルはこのシーズン限りでF1を引退し、そのキャリアに幕を閉じた。 フレンツェンとヒルの活躍により、チームはフェラーリ、マクラーレンに次ぐコンストラクターズランキング3位を獲得、これは2005年のチーム売却までジョーダンのランキング最高位であった。
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1999年シーズン
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「スチュワート・SF-3」の記事における「1999年シーズン」の解説
開幕戦オーストラリアGPでは2台揃ってグリッド上でオイルリークが発生し、ハーバートは出走不可能という憂き目にあった。バリチェロは5番グリッドから4位完走という好スタートを切る。 第2戦ブラジルGPは、バリチェロが予選で圧倒的な速さを誇るマクラーレンに続く予選3番手を獲得。決勝レース序盤はトップを快走し母国のファンを熱狂させたが、3位走行中にエンジンブローで初優勝の夢は消えてしまった。第3戦サンマリノGPはバリチェロが3位で、1997年モナコGP以来の表彰台を獲得する。第7戦フランスGPではバリチェロが雨の予選で自身2度目(チームとしては初)のポールポジションを獲得し、決勝は今期2度目の3位フィニッシュ。 チームメイトに比べ精彩を欠いていたハーバートだが、天候の変化に翻弄された第14戦ヨーロッパGPでタイヤ交換の読みが冴え、1995年イタリアGP以来の優勝を果たし、スチュワートチームも創設3年目で初優勝を飾った。バリチェロも3位に入りダブル表彰台を達成する快挙となった。 最終的にコンストラクターズランキング4位という過去最高の成績を収め、このシーズン限りでエンジンサプライヤーであるフォードがチームを買収。2000年からはジャガーとして参戦することが決定し、上昇気流に乗っていたチームの歴史は3年で幕を閉じることとなった。1993年のF1デビュー以来伸び悩んでいたバリチェロは、晴れてフェラーリ移籍が決まる。
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