F1デビュー
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1978年に第3戦南アフリカGPにて、セオドールからF1デビュー。この年はチームを渡り歩くことになり、セオドールで4戦を戦った後、第8戦スウェーデンGPからの3戦はATS、第11戦西ドイツGPからの4戦はウルフ、第15戦アメリカ東GPからの2戦はATSに戻って参戦した。しかしいずれのチームもマシンの戦闘力は低く、予選・決勝共に下位に沈み、予選落ち1回、予備予選落ち4回も喫している。 翌1979年は前半戦にはシートが無く、第8戦イギリスGPよりウルフから参戦。そのレースでは9位で完走したが、その後はリタイヤ6回・予選落ち1回と全く完走出来なかった。 1980年にはフィッティパルディからの参戦となる。これまで同様、弱小チームからの参戦だったが、開幕戦アルゼンチンGPでは完走7台のサバイバルレースを生き残り、3位表彰台を獲得。予選落ちを3度喫すなど、シーズンを通せば苦しい戦いとなったが、第12戦イタリアGPでは5位に入賞。第9戦西ドイツGPでの予選8位、第13戦カナダGPでの予選6位など、時折存在をアピールした。 1981年もフィッティパルディに残留したが、完走は3回(最高位:9位)。チームの資金難もあって、リタイヤ6回・予選落ち5回と、前年以上に苦しいシーズンとなった。
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F1デビュー
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既に翌年からのF1デビューを決めていた亜久里であったが、1988年10月に行われた日本GPに、中耳炎により急遽欠場となったヤニック・ダルマスの代役として、ラルースチームからスポット参戦という思わぬ形でF1デビューを飾る。 この時、亜久里はフジテレビF1中継のゲスト解説者として鈴鹿入りする際の新幹線内でスポット参戦決定を知らされ、急遽後発のスタッフに自身のヘルメットを持参させ、ヤニック・ダルマスのレーシングスーツを着用してレースに臨んだというエピソードが残っている。しかし、この時は非力なマシンでの急な参戦ということもあったうえにマシンのセッティングも万全ではなくレース中に数回のスピンを喫し、16位完走に終わっている。ラルースからは次戦オーストラリアGPの出走も打診されたが、こちらはスケジュールの都合がつかずに断念している。
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F1デビュー
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「ジャンカルロ・フィジケラ」の記事における「F1デビュー」の解説
レーシングカート時代に頭角を現し、1994年にイタリアF3チャンピオンを獲得。1995年には旧ドイツツーリングカー選手権(DTM)にアルファロメオで参戦。F1ベネトンチームのフラビオ・ブリアトーレとマネージャー契約した。そして1996年、当初すでにミナルディはペドロ・ラミーと井上隆智穂のラインナップを発表していたが、開幕直前にスポンサーの問題でシートを失った井上に代わってミナルディからF1デビューを果たした。しかし経営状態の悪化からチーム体制が安定せず、非力なマシンの上に、チームが資金持ち込みドライバーを起用したため8戦のみ出場に留まった。それでもベテランのラミーを予選、決勝共に凌ぐパフォーマンスを見せ、ドライバー選考オーディションとなる実走テストを経て1997年にジョーダンに移籍した。チームメイトはラルフ・シューマッハであった。第3戦アルゼンチンGPでの同士討ち以降、ラルフとの関係が悪化したが、第7戦カナダGPで初表彰台となる3位を獲得した。第10戦ドイツGPでは初優勝のチャンスを迎えたが、ゲルハルト・ベルガーとの接戦に破れた。しかしシーズン全体では20ポイントを獲得し、ランキング8位でシーズンを終えた。
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F1デビュー
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「ジョニー・ハーバート」の記事における「F1デビュー」の解説
1989年には、完治しない足のままベネトンでF1参戦。パドック内を移動するのに松葉杖や折り畳み式自転車を使わなければならなかったのにも関わらず、「ジム・クラークの再来」と表現され、新人らしからぬ傲慢な言動も相まって注目を浴びていた。 デビュー戦・開幕戦ブラジルGPでは予選10位から2位争いを繰り広げた末4位でフィニッシュ。注目に劣らない結果を残したが、その後は足の経過も思わしくなく成績が下降、予選・決勝ともに下位に埋もれていった。またチーム内の政治的抗争に巻き込まれ、サバイバルレースとなった第5戦アメリカGPで5位に入ったものの、予選落ちを喫した第6戦カナダGPを最後にチームを解雇され、エマニュエル・ピロにシートを譲る結果となった。 これ以後、暫くF1のレギュラーシートは得られなかったが、1989年後半にはティレルからジャン・アレジの代役として2レースを、1990年にもマーティン・ドネリーの代役として、終盤2戦にロータスから参戦。また1991年は、ロータスのレギュラードライバーという立場ではあったものの、同時に参戦していた全日本F3000選手権などを優先した結果、計8レースの参戦に留まっている。
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F1デビュー
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1974年には元F1ドライバーのクリス・エイモンが創立したエイモン・レーシングのマシンでドイツグランプリに参戦するが、予選落ちした。その後、1976年にエンサインをベースにしたマシンで参戦していたボロでスペイングランプリに参戦し、予選を24位で通過、F1デビューを達成した。決勝は優勝したマクラーレンのジェイムズ・ハントから3周遅れの13位でフィニッシュしている。 その後もベルギーグランプリ、モナコグランプリ、スウェーデングランプリと3戦連続でボロから出走。モナコグランプリは予選落ちするも、ベルギーグランプリでは優勝したフェラーリのニキ・ラウダからわずか1周遅れの8位でフィニッシュている。 その後、ドイツグランプリで重傷を負ったラウダの代役としてフェラーリへ移籍したカルロス・ロイテマンの代わりとしてブラバムへ移籍するもエースのカルロス・パーチェに予選、決勝ともに勝てなかった。また、この年の最終戦となったF1イン・ジャパンでは悪天候のためわずか1周で撤退している。 翌年の1977年にはBRMへ移籍し、ブラジルグランプリと南アフリカグランプリに参戦するも資金難の真っ只中にあったチームのマシンでは入賞すら出来ず、わずか2戦でチームを離脱した。ちなみに、BRMはこの年のイタリアグランプリを最後に消滅している。 その後、ベルギーグランプリからはサーティースへ移籍。初戦となったベルギーグランプリでは12位でフィニッシュするも、続くスウェーデングランプリとフランスグランプリは予選落ち、このレースを最後にF1を去っている。
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F1デビュー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 06:19 UTC 版)
「カルロス・ロイテマン」の記事における「F1デビュー」の解説
1972年に、ブラバムチームからグラハム・ヒルのセカンドドライバーとしてF1デビューを果たす。そして、初戦の母国アルゼンチングランプリで、インディ500のみ出走ドライバーを除くとF1世界選手権史上4人しかいない、「F1デビュー戦でポールポジション」という鮮烈なデビューを飾る。残りの3人はジュゼッペ・ファリーナとマリオ・アンドレッティとジャック・ヴィルヌーヴであるが、ファリーナは戦前から第一線のドライバーとして活躍しており、たまたまF1世界選手権最初のレースになった1950年イギリスGPでポールポジションを獲得したもので、アンドレッティは既にアメリカのインディで活躍しているドライバーであり、ヴィルヌーヴはデビュー前年にアメリカのトップフォーミュラであるCARTにてシリーズチャンピオンとすでに十分な実績があり、さらに当時のトップクラスのチームから参戦したのに対し、ロイテマンが所属したブラバムは、当時とてもトップチームとは言えない中堅チームであり、同じ記録ではあるが、他の3人と比較しても評価されるべきである。
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