ジョニー・ハーバート(イギリス)
1974年にレーシングカートでレース活動を開始。フォーミュラ・フォード(FF)で4輪レースに転向し、85年にはFFフェスティバルで、見事優勝を飾った。その後F3にステップアップし、87年にはイギリス・チャンピオンに。88年にはヨーロッパF3000に参戦し、開幕戦のへレスでデビュー・ウィン。そのシーズン、同シリーズでチャンピオンの有力候補と目されたがブランズハッチでのアクシデントから足を負傷し、ランキング8位。しかし翌89年にはベネトンからF1にステップアップ、デビュー戦のブラジルGPで4位入賞を果たした。90年前後には日本のレース(89年の富士1000km、90、91年のF3000シリーズとスポーツカー選手権)にも顔を見せていたが、その後F1に復帰し、2000年まで活躍した。F1の通算成績は162戦3勝、1995年のシリーズ4位がベスト。91年のルマンではマツダ787Bに乗り日本車を初優勝に導いたひとりでもある。2002年にはアウディR82で2位になった。
ジョニー・ハーバート
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ジョン・ポール・"ジョニー"・ハーバート(John Paul "Johnny" Herbert、1964年6月25日 - )は、イギリス生まれのレーシングドライバー。1991年、ル・マン24時間レースの優勝者。2009年までスピードカー・シリーズに参戦していた。
- ^ ピーター・コリンズ、ベネトンを辞める グランプリ・エクスプレス 1989ベルギーGP 28頁 山海堂 1989年9月16日発行
- ^ F1第7戦フランスGPからティレルのレギュラーシートを得たアレジが、同年の本来の参戦カテゴリーである国際F3000選手権でのチャンピオン獲得を熱望していたことから、F1とF3000のスケジュールが重なっていたベルギーGPとポルトガルGPにアレジの代役として参戦した
- ^ ハーバートの一時復帰でまる儲けのベネトン・足の回復具合の実戦テストができてハーバートのF1に乗りたい気持ちも満たせるという絶好の機会となった。 GPX 1989ベルギーGP 28頁 山海堂 1989年9月16日発行
- ^ a b F1に残ったハーバート、ロータスとテスト契約 グランプリ・エクスプレス '90開幕直前号 6頁 1990年3月10日発行
- ^ 「ドネリー大クラッシュ 重傷」F1GPX 1990第14戦スペイン 30頁 山海堂 1990年10月20日発行
- ^ 乗り換えが間に合わず、再スタート時は4位グリッドにつけなかった。また、資金難から新型エンジンは一基しか用意できず、スペアカーには旧型エンジンが搭載されていた。
- ^ [1] RedBull公式サイト 2018年8月15日閲覧。
- ^ ジョニー・ハーバートの修羅場の戦闘学 F1グランプリ特集 1995年11月16日発行
- ^ 1991 JS-PC 500 kms.: 1991 JS-PC 500 kms. Fuji, Japan. Johnny Herbert runs to help Takao Wada from his car. Motorsports Images
- ^ レーシングOFF ジョニー・ハーバート Racing On 1992年10月
- ^ 『日本の名レース100選 062 '91F1日本GP』三栄書房、2010年、P.43頁。
- ^ ライト兄弟もハーバートとハッキネン同様4歳違いである。
- ^ 『AUTO SPORT No.1144』2008年1月31日号、三栄書房、2008年、45頁。
- ^ 『F1グランプリ特集』 ソニーマガジンズ、10月号、1995年、6頁。
- ^ a b c d e 「人生はいつも甘くて順調とは限らない」『F1倶楽部』 双葉社、34号、2000年、34 - 37頁。
- ^ a b c d e 「僕が選んだベスト5ドライバー・素晴らしいライバルたち」『F1グランプリ特集』 ソニーマガジンズ、2月号、2001年、26 - 31頁。
- ^ 『Racing On』No.484 三栄書房、2016年、p.29。
- ^ ゲルハルト・ベルガーの好漢日記 F1グランプリ特集 1996年1月16日発行
- 1 ジョニー・ハーバートとは
- 2 ジョニー・ハーバートの概要
- 3 ミハエル・シューマッハとの関係
- 4 レース戦績
- 5 脚注
固有名詞の分類
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