ディディエ・ピローニ(フランス)
フォーミュラ・ルノーで1972年にレースデビュー。74年にチャンピオンとなり75年にはフォーミュラ・スーパー・ルノーにステップアップして、76年にはチャンピオンに。77年はF2、そして78年にはティレルからF1デビューを果たした。また、同時にこの年にはルノー・ワークスからルマンにも参戦、J-P.ジョッソーとのコンビでアルピーヌA442を優勝に導いた。その後F1ではリジェを経て81年にフェラーリに移籍。G.ビルヌーブとコンビを組んだがチームオーダーを巡って仲違いしてしまったのは有名なエピソード。82年ドイツGPの予選でクラッシュ、瀕死の重傷を負ってレースから引退したが、5年後にパワーボートの事故で不帰の人に。F1通算記録は70戦3勝。
ディディエ・ピローニ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/29 16:00 UTC 版)
ディディエ・ジョゼフ=ルイ・ピローニ(Didier Joseph-Louis Pironi 、1952年3月26日 - 1987年8月23日)は、フランスのレーシングドライバー。1978年から1982年までF1ドライバーとして活動した。
- ^ エルフはティレルの主要スポンサーを務めていた。
- ^ 優勝1回・2位2回・3位2回・4位1回・5位1回でランク4位。
- ^ この契約は、1980年シーズンの前半には既に交わされていたという。
- ^ 主催者側、自動車メーカー系チーム(フェラーリ、ルノー、アルファロメオ)がこちらについていた。
- ^ チーム側、主にイギリス系のチームがこちらについていた。
- ^ ターボエンジンに馬力で劣るDFVエンジン勢は、シャシを最低重量よりも軽く作って「ブレーキ冷却水」という名目で水タンクを設置していた。レース前の車検はタンクに水を入れておき、レース中にはタンク内の水を捨てて車重を軽くし、レース後に注ぎ足して最低重量規定をクリアしていた。
- ^ フェラーリ・チームはこの件に対し「チームオーダーはなかった」と発表している(フジテレビNEXT「F1 Legends」より小倉茂徳談)。
- ^ A DAY IN SCENE 1977 JAF SUZUKA GP レーシングオン No.019 1987年11月号 131頁 (武集書房)
- ^ INSIDE F1 グランプリの真実 ナイジェル・ルーバック著 130頁 1982.8.26「ピローニの惨事」双葉社
- ^ INSIDE F1 グランプリの真実 ナイジェル・ルーバック著 178頁 1983.8.25「ピローニ12ヵ月後」双葉社
- ^ INSIDE F1 グランプリの真実 ナイジェル・ルーバック著 176頁 1983.8.25「ピローニ12ヵ月後」双葉社
- ^ D.ピローニがル・マンでカムバックか?4年ぶりのレース出場可能性 Racing On No.003 33頁 1986年7月1日発行
- ^ 【NEWS】F1復帰も待たずピローニ逝く GPX 1987年第11戦イタリアGP号 29頁 山海堂
- ^ 「コリブリ号」はピローニの死去後にジャン=ピエール・ジャリエが引き取った。ジャリエはピローニの意思を引き継ぎ翌年からパワーボート選手権に参戦した。
- ^ F1チャンプを逃した男の非情の海・サーキットから海に場を変え、世界一を目指したピローニの最期 レーシングオン No.019 1987年11月号 52頁 武集書房
- ^ Didier Pironi (1952 - 1987) - Find A Grave Memorial
- ^ Gilles Pironi:I love Ferrari, but I am in the best team Nextgen Auto 2020年8月5日
- ^ 【F1ドイツGP記憶に残る名場面ベスト7】パトリック・タンベイ 失意のFerrariを勝利で励ます・ホッケンハイム1982年8月8日 Redbull.com
- ^ 『Racing On460号 特集 ジルとディディエ』p.69。
- ^ a b c d e f JAF(日本自動車連盟)ライセンスではない外国ライセンスドライバーはポイント対象外。
- 1 ディディエ・ピローニとは
- 2 ディディエ・ピローニの概要
- 3 レース戦績
- 4 出典
ディディエ・ピローニ
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「ジル・ヴィルヌーヴ」の記事における「ディディエ・ピローニ」の解説
ヴィルヌーヴ事故死の原因になってしまったピローニだが、実際はヴィルヌーヴに対して友情を持っていたと言われる。ピローニは第8戦カナダGPでポールポジションを獲るが、「本来ならここにいるべき男がいない」と涙を見せた。このレースでは決勝スタート時、ピローニはエンジンをストールさせてしまい、後方から追突したリカルド・パレッティが、シーズン2人目の事故死者になるという悲劇が起きている。 ピローニはその後ポイントリーダーになったが、雨で視界不良となった第12戦ドイツGPの予選中、前を走るプロストのマシンに乗り上げ、ベルギーGPのヴィルヌーブと同様の事故を起こしてしまう。ピローニは両足複雑骨折の重傷を負い、タイトルは無論のこと、F1ドライバーとしてのキャリアをも失う結果になった。ピローニは1987年にパワーボートレース中の事故で死亡したが、パートナーの女性は死後に誕生した双子の息子にディディエとジルと名づけた。 実はピローニとヴィルヌーヴは例のサンマリノGP以降、一度だけ言葉を交わしている。ヴィルヌーヴはピローニのいる場所には極力近付かないようにしていたが、ある時ピローニがすれ違いざまに「Salut(やぁ)」と言うと、ヴィルヌーヴはとっさに「Salut」と返事をした。この後、ヴィルヌーヴは酷く自分を呪ったという。
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