瀕死の重傷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 07:12 UTC 版)
25歳の時、映画界から東洋思想研究へと転身させる宿命とも言える転機がふいに訪れる。バンコク市郊外の農村で撮影中、突然水牛2頭に襲われる。瀕死の重傷を負い、奇跡的に生還。その入院中、中国古典思想に出会い、経営指導に転身し、1972年、株式会社イメージプラン設立。以来、2000社を超える企業に指導を行う。 そのときの様子が、田口の半生を紹介した『fooga』第90号(2009年、フーガブックス)にこう書かれている。 水田の中にある農家の庭先で、少年が2頭の水牛を使って脱穀しているのが目に映った。和牛の倍ほどもある、筋骨隆々の巨躯と猛々しい角に魅了され、その美しさをなんとしても撮りたいと思い、近づいた。その時である。撮影機材に刺激されたのだろうか、ふだんは穏やかな水牛が、満腔の怒気を擁して突進して来たのだ。田口は、逃げるすべもなく角で右の腎臓を突かれ、空中に放り投げられた。体は裂かれ、背骨の一部を吹き飛ばされ、内臓が飛び出した。地面に叩きつけられても水牛の攻撃は終わることなく、再び他の水牛から背中を突かれ、放り投げられた。それまでののどかな風景が、修羅場と一変した。凄惨な血祭りは15分ほども続いたという。 その時、同行していた撮影クルーは、誰一人なすすべがなかった。内臓が飛び出してしまった人の処置をどうしていいのかわからず、茫然自失となっていたのだ。しかし、不思議なことに、それほど体を切り裂かれても、田口の意識は冴え冴えとしていた。まるで月光のごとく、明瞭だったという。取り乱すことなく、破れたシャツの切れ端や稲わらなどが付着している自分の内臓を肉の破れ目から体内に戻した。―― 生死の境をさまよいつつ、田口はシリラ王立病院に救急搬送された。診断の結果、左側の腎臓ほか内臓や背骨の損傷、左脚の機能不全などが判明した。しかし、水牛の角による裂傷は動脈と脊髄をそれぞれ1センチ程度かわしていたという。そのことについて、田口は次のように後述している。 「わずか1センチの差で致命傷を逃れた意味は何だろう、何が私を守ってくれたのだろう、そこにはどのような意味があるのだろう、あるとすれば、どのような方法でそれに応えなければいけないのだろうとずっと煩悶していました」 その後退院し、日本に帰国したが、依然として人工透析の可能性があり、左脚の運動神経と知覚神経の麻痺も残っていた。西洋医療・東洋医療・民間医療問わず、効果があると聞けば全国どこへでも出かけ、治療に専念した。その結果、人工透析と左脚機能不全は免れたものの、重度の身体障害者としてその後の人生を生きることになる。
※この「瀕死の重傷」の解説は、「田口佳史」の解説の一部です。
「瀕死の重傷」を含む「田口佳史」の記事については、「田口佳史」の概要を参照ください。
- 瀕死の重傷のページへのリンク