瀕死の重傷で飯を六杯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/31 01:58 UTC 版)
中村勇吉は、病院へ収容された時も意識はハッキリしており、自分が手の施しようが無い重傷であると分かると「わかった。助かりそうもないということだな。それなら手当てはせんでもよい。それより腹がへってたまらん。めしを食べさせてもらいたい」と言い、出された飯をペロリと六杯平らげた。これには傍らにいた西郷隆盛も驚いた。さらに小笠原唯八は、西郷の傍らにいた、重傷でありながらも豪快な食べっぷりの中村の姿を目撃して驚き、誰かと尋ねると、西郷は「これは尊藩(土佐)の板垣さんより頼まれた水戸浪士の中村勇吉である」と答えた。中村はその3日後亡くなった。慶応4年5月18日(1868年7月7日)死去。 小笠原は驚きのあまりこの事を板垣へ伝えた。板垣は後日、西郷に会った時に中村の最期を聞いたが、西郷も「中村がこれ程の豪胆な男だったとは思わなかった」としきりに感心していた。
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