瀘定橋の横断
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/12 09:51 UTC 版)
「マオ 誰も知らなかった毛沢東」の記事における「瀘定橋の横断」の解説
チアンとハリデイは革命の神話に反し、瀘定橋の戦いは実際には存在せず、「英雄的な」横断の話は単なるプロパガンダだったと主張している。チアンは目撃者(Li Xiu-zhen)を見つけ、その女性は彼女が戦いを見なかったこと、そして橋が燃えていなかったことをチアンに話した。その上、彼女は戦いが激しかったという共産党の主張にもかかわらず先鋒全員が戦いで生き残ったと語っている。チアンは共産党が到着する前に橋の守備隊が退去したことを示す中国国民党の戦闘計画とコミュニケも引用している。 中国の外でさえ、いくつかの英雄的な作品がそれ程は英雄的要素を持たないまでも、そのような戦いを描いている。ハリソン・ソールズベリー(英語版)の The Long March: The Untold Story とシャーロット・サリスベリーの Long March Diary は瀘定橋の戦いに言及するが、それらは間接的な情報に頼ったものである。しかしながら、その事件に関して別の情報源には不一致がある。中国のジャーナリストSun Shuyunは当局の説明が誇張されたことについて同意している。彼女は事件を目撃した地元の鍛冶屋にインタビューすると、「[共産党軍に対抗する部隊]が兵隊が近付くのを見るとパニックを起して逃げた。その時には彼らの将校は彼らを長い間捨てておいていた状態だった。実際に大した戦闘があった訳ではない。」との話を聞いた。成都の公文書はこの主張をさらに裏付けた。 2005年10月、ジ・エイジ紙はチアンの言う地元の目撃者を見つけることができなかったと報じた。その上、The Sydney Morning Herald はチアンの主張と相反する話をする、事件当時は15歳で85歳になった目撃者 Li Guixiuを見つけた。その者によると、戦いがあった。「戦いは夕方始まった。共産党軍側では多くのものが殺された。国民党軍はチェーンを熔かそうと反対側にある橋の一部となっている建物を狙って発砲し、チェーンの1つが切られた。その後、共産党軍は渡るために7日7晩かかった」 元米国の国家安全保障問題担当大統領補佐官ズビグネフ・ブレジンスキーはスタンフォード大学における演説で、自身が鄧小平と会話した時のエピソードに言及した。ブレジンスキーによれば、鄧は「ええ、それは我々のプロパガンダに用いられた方法です。我々は我々の軍隊の闘争心を表現することが必要でした。実際、それは非常に簡単な作戦でした」と述べたという。
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