ピエール=アンリ・ラファネルとは? わかりやすく解説

ピエール=アンリ・ラファネル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/28 06:32 UTC 版)

ピエール=アンリ・ラファネル
基本情報
国籍 フランス
出身地 アルジェリアアルジェ
生年月日 (1961-05-27) 1961年5月27日(63歳)
F1での経歴
活動時期 1988-1989
所属チーム '88 ラルース
'89 コローニ
'89 リアル
出走回数 17 (1スタート)
タイトル 0
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 0
通算獲得ポイント 0
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦 1988年オーストラリアGP
初勝利
最終勝利
最終戦 1989年オーストラリアGP
テンプレートを表示

ピエール=アンリ・ラファネルPierre-Henri Raphanel1961年5月27日 - )は、フランス領アルジェリア(現在のアルジェリア)・アルジェ生まれ、フランス国籍のレーシングドライバー。1985年のフランス・フォーミュラ3選手権チャンピオン。

経歴

初期

1981年にレーシングカートのフランス選手権・エリートクラスで優勝。1983年にフランス・フォーミュラ・ルノーに参戦を開始。マルティニ・MK38・ルノーで2度の表彰台を獲得しランキング5位を獲得し頭角を現す。

フォーミュラ3

1984年からフランスF3選手権にステップアップすると、マルティニ・アルファロメオで2度のポールポジション獲得とF3初優勝を挙げランキング3位を獲得。この活躍により名門オレカから誘いを受け移籍。1985年シーズンは4勝、8PPとランキング2位となったヤニック・ダルマスに大差をつけてのシリーズチャンピオンとなった。なお、同年はモナコグランプリ前座のF3GPでも優勝した(2位にファブリツィオ・バルバッツァ、4位にデイヴ・スコット)。

フォーミュラ3000

1986年にオレカのF3000チームに昇格し、国際F3000選手権第10戦ル・マンでF3000初表彰台を獲得した。1987年にマーチF3000ワークスチームとして参戦するマールボロオニクスに移籍。しかし同年のチームメイト、ステファノ・モデナが3勝を挙げチャンピオンを獲得する活躍を見せた一方で、ラファネルはリタイヤが多く、ポー・グランプリでのポールポジション獲得はあったが苦戦の年となった。

1988年にオレカへと復帰、チームメイトは前年のF3チャンピオン、ジャン・アレジであった。同年のマーチ・88Bシャシーが新興レイナード製シャシーを使用するチームとの性能差が大きかったため、オレカも第3戦から二台ともレイナードにスイッチするシーズンとなった[1]。ラファネルは第4戦シルバーストンで表彰台を獲得するが、アレジやエリック・ベルナールら後輩にランキングでは抜かれてしまった。同僚のアレジはこの年のチーム事情を、「オレカではレイナードにスイッチしても、結局F3000マシンに対応できるエンジニアがいなかった。オレカではまともに走らせるセッティングが出来ない。モレノドネリーベルナールグルイヤールたちはみんな勝てるマシンを持ってるのに、僕とラファネルには何もないんだ。全然うまく行かなくてチームと色々言い争ったり、88年のシーズン終盤は悲劇だった。」と証言するなど、チームは苦しい状況に陥っていた[1]。そんな中で同年11月、ラファネルにオーストラリアGPにてF1デビューするオファーが届いた。

フォーミュラ1

1988年最終戦オーストラリアGPにて、中耳炎で欠場となったヤニック・ダルマスの代役として、ラルースローラで出走したが、結果は予選不通過に終わる。このラルースでの代役参戦は前戦日本GPに引き続き鈴木亜久里にオファーが出されていたが、オーストラリアGPと同日の開催だった富士インターTECに鈴木がNISMOから参戦することが決定済みだったためラファネルに回って来たチャンスだった。

1989年にイタリアのコローニと契約しF1レギュラーシートを得た。チームメイトはロベルト・モレノ。しかし新型車が開幕に間に合わなかったコローニで使用された旧型マシンのFC188は、実力者モレノをもってしても中位以下の戦闘力しかなく、ラファネルは第3戦モナコGPでの決勝進出(これがキャリア唯一のF1決勝レース出走となった。)以外は全て予備予選不通過と苦しいシーズンを送る。第11戦ベルギーGPを前に、ドイツに拠点を置くリアルに移籍するも、資金に苦しむチームが同年用のマシンARC2をドイツのグライダー制作工房に依頼して作らせておりシャシー剛性が極めて低く[2]コローニの新車より戦闘力が無い状態だった。結局リアルから参戦した全戦で予選不通過となり、同年最終戦オーストラリアGPがキャリア最後のF1参戦となった。なお、リアルもこのGPを最後にF1から撤退した[3]

日本での活動

1998年から日本のレースへも参戦し、全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権全日本ツーリングカー選手権全日本GT選手権に参戦。トヨタのドライバーとして活躍した[4]

所属したINGINGではチーム監督も務め、ロニー・クインタレッリ[5]ブノワ・トレルイエセバスチャン・フィリップジェレミー・デュフォアにレースシートを与え、日本のレース界に導いた。

2006年からブガッティ・ヴェイロンの開発ドライバーを担当している。

レース戦績

フランス・フォーミュラ3選手権

エントラント シャーシ エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 順位 ポイント
1984年 エキープFRO マルティニ Mk39 アルファロメオ ALB
5
NOG
9
DIJ
4
PAU
6
ROU
4
CET
6
MAG
3
LED
1
ALB2
3
3位 71
1985年 オレカ マルティニ Mk45 NOG
1
MAG
1
LED
Ret
PAU
1
LAC
1
ROU
3
DIJ
4
LEC
2
NOG2
2
ALB
3
CET
Ret
LEC
13
1位 115

* 太字ポールポジション斜字ファステストラップ

マカオグランプリ

チーム エンジン 周回 合計タイム LEG1 LEG2 総合順位
1985年 オレカ アルファロメオ 23 57:23.350 13 Ret 16位

国際F3000選手権

チーム シャシ エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1986年 オレカ マーチ・86B コスワース DFV SIL
Ret
VLL
14
PAU
Ret
SPA
6
IMO
15
MUG
8
PER
7
ÖST
12
BIR
Ret
BUG
3
JAR
15
12位 5
1987年 マールボロ・オニクス マーチ・87B コスワース DFV SIL
16
VLL
4
SPA
8
PAU
Ret
DON
3
PER
Ret
BRH
Ret
BIR
Ret
IMO
Ret
BUG
14
JAR
Ret
13位 7
1988年 オレカ マーチ・88B コスワース DFV JER
15
VLL
18
14位 8
レイナード・88D PAU
6
SIL
3
MNZ
Ret
PER
5
BRH
DNS
BIR
Ret
BUG
6
ZOL
Ret
DIJ
12

F1

チーム シャシー エンジン タイヤ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 WDC ポイント
1988年 ラルース ローラ・LC88 コスワース DFZ V8 G BRA SMR MON MEX CAN DET FRA GBR GER HUN BEL ITA POR ESP JPN AUS
DNQ
NC 0
1989年 コローニ コローニ・FC188 コスワース DFR V8 P BRA
DNPQ
SMR
DNPQ
MON
Ret
MEX
DNPQ
USA
DNPQ
HUN
DNPQ
NC 0
コローニ・C3 CAN
DNPQ
FRA
DNPQ
GBR
DNPQ
GER
DNPQ
リアル リアル・ARC-02 コスワース DFR V8 G BEL
DNQ
ITA
DNQ
POR
DNQ
ESP
DNQ
JPN
DNQ
AUS
DNQ

全日本ツーリングカー選手権

チーム コドライバー 使用車両 タイヤ クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 順位 ポイント
1992年 FUJITSU TEN トムス 関谷正徳 トヨタ・カローラレビン B JTC-3 TIA
5
AUT
Ret
SUG
3
SUZ
Ret
MIN
7
TSU
6
SEN
4
FSW
4
13位 52
1993年 チーム・トムス 関谷正徳 B JTC-3 MIN
2
AUT
2
SUG
8
SUZ
DSQ
TIA
3
TSU
3
TOK
Ret
SEN
5
FSW
Ret
7位 65

FIA GT

チーム 使用車両 クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 順位 ポイント
1997年 ガルフ・チーム・ダビドフ マクラーレン・F1-GTR GT1 HOC
2
SIL
4
HEL
4
NÜR
5
SPA
Ret
A1R
5
SUZ
3
DON
6
MUG
6
SEB
5
LAG
4
7位 27

全日本GT選手権

チーム コドライバー 使用車両 タイヤ クラス 1 2 3 4 5 6 7 順位 ポイント
1998年 INGING 高木真一 トヨタ・スープラ B GT500 SUZ
Ret
FSW SEN
Ret
FSW
13
TRM
Ret
MIN
6
SUG
PO
18位 6
1999年 マツモトキヨシ TEAM TOM'S 山路慎一 M GT500 SUZ
13
FSW
Ret
SUG
2
MIN
14
FSW
13
TAI
6
TRM
6
16位 27
2000年 山路慎一 M GT500 TRM
12
FSW
Ret
SUG
3
FSW
13
TAI
9
MIN
Ret
SUZ
7
14位 18

ル・マン24時間レース

ル・マン24時間レース 結果
チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 順位 クラス
順位
1986年 プリマガス・チーム・クーガー イブ・クラージュ
アラン・ドゥ・カデネ
クーガー・C12-ポルシェ C1 267 18位 11位
1987年 プリマガス・コンペティション イブ・クラージュ
エルヴェ・ルグー
クーガー・C20-ポルシェ C1 332 3位 3位
1988年 ミシェル・フェルテ クーガー・C20B-ポルシェ C1 120 DNF DNF
1989年 ヨースト・レーシング フランク・イェリンスキー
ルイス・クラージェス
ポルシェ・962C C1 124 DNF DNF
1990年 トヨタ・チーム・サード ローランド・ラッツェンバーガー
長坂尚樹
トヨタ・90C-V C1 241 DNF DNF
1991年 プジョー・タルボ・スポール ケケ・ロズベルグ
ヤニック・ダルマス
プジョー・905 C1 68 DNF DNF
1992年 トヨタ・チーム・トムス 関谷正徳
ケネス・アチソン
トヨタ・TS010 C1 346 2位 2位
1993年 ケネス・アチソン
アンディ・ウォレス
C1 212 DNF DNF
1994年 クラージュ・コンペティション パスカル・ファブル
リオネル・ロベール
クラージュ・C32LM-ポルシェ LMP1
C90
107 DNF DNF
1995年 GTCレーシング フィリップ・アリオー
リンゼイ・オーウェン-ジョーンズ
マクラーレン・F1 GTR GT1 77 DNF DNF
1996年 ガルフ・レーシング
GTCレーシング
リンゼイ・オーウェン-ジョーンズ
デビッド・ブラバム
GT1 335 5位 4位
1997年 ガルフ・チーム・ダビドフ
GTCレーシング
ジャン=マルク・グーノン
アンデルス・オロフソン
GT1 360 2位 1位
1998年 ポルシェ AG
ヨースト・レーシング
デビッド・マリー
ジェームス・ウィーバー
ポルシェ・LMP1-98 LMP1 218 DNF DNF
2000年 パノス・モータースポーツ ジョニー・オコーネル
加藤寛規
パノス・LMP-1 ロードスター-S LMP900 342 5位 5位

関連項目

脚注

  1. ^ a b インタビュー ジャン・アレジー 駆け上がる階段 グランプリ・エクスプレス カナダGP号 9-11頁 1990年6月30日
  2. ^ V.バイドラー いつまでもニッポンで走る! Racing On No.121 86頁 1992年6月15日発行
  3. ^ リアルも撤退が決定 ドイツチーム全滅 グランプリ・エクスプレス '90開幕直前号 7頁 山海堂 1990年3月10日発行
  4. ^ TOYOTA GT合同体制発表 本気になったトヨタの気合が伝わってくる Racing On No.290 15頁 1999年3月26日発行
  5. ^ 高橋二朗コラム・えっ、そうだったの!?ロニーさんとラファネル氏 J SPORTS (2025年1月30日)
タイトル
先代
オリビエ・グルイヤール
フランスF3選手権 チャンピオン
1985
次代
ヤニック・ダルマス






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